
あなたはこの世界のすべてが偶然によって生まれ、あなた自身も偶然によってこの世に存在していると信じていますか?
もしそれが本当なら、私たちが今生きている意味はなんでしょうか。人が生まれ、生き、感じ、創り、愛するすべての営みが意味を持たなくなるのではないでしょうか。
「そんなこと考えても答えなんてどこにもないから」
そう言う人もたくさんいるでしょう。
しかし答えはあるのです。
全世界を、私たちすべてを意味のある存在として造られた方が、数千年前に地上に生きていた人々を通してその事実を、また私たちの生きる目的をはっきりと伝えておられます。
その言葉は「聖書」という形をとって今を生きる私たちにも届けられているのです。
聖書
聖書は今から数千年前を生きた多くの人々を通して語られた神の言葉を記した預言書であり、また神と人間がどのように関わり合いながら歩んで来たかを記した、信頼のおける歴史書でもあります。
聖書は難解で、非常に厳しい戒律が書かれている。
そう思う人も多いかもしれません。ある部分においてはそれは正しく、特に聖書の前半、旧約聖書には神の前に人が守らなくてはならない多くの決まりごと(律法)が書かれています。しかし、注意して読むときに、そんな中にも神の大きな愛が現れていることが分かります。
『人間の罪深さ、そしてそれに対する神の豊かな愛』が聖書の中心的なテーマなのです。
罪
あなたは「自分は生まれてこのかた罪を犯したことがない」と思いますか?
確かに盗みや傷害などで警察のお世話にはなったことがないという方は多いと思いますが、しかしそんな人でも自分を守るために、また自分の利益のために、に嘘をついたり人を中傷したりしたという経験は少なからずあるのではないでしょうか。
聖書においては、法に触れる罪よりもむしろ、罪を犯してしまう人間の性質が問題であると書かれています。人が創り主である神を離れ、自分を神とすること、すなわち「自己中心」の生き方こそが最大の罪であると。
すべての目に見える罪は元を辿ればこの「自己中心」に行き着くということに頷けるのではないでしょうか。また同様に、それはすべての人が背負っている根源的な罪であるということも頷けるのではないでしょうか。
福音
神は義なる存在であるゆえに、人がその根源的な罪(原罪)を持ったままでは関係を回復することができません。しかし同時に愛である神はどうにかしてすべての人を救いたいと望んでおられます。
そして神は1つの驚くべき方法を持ってそれを実現されました。
神は愛するひとり子であるイエスを人として世に送り、私たちのすべての罪を購う生贄として、十字架につけられたのです。
イエスは時間、空間を超えて存在するすべて人間の罪を背負われ、痛みと苦しみと辱めを受けながら十字架上で命を落とされました。
神はイエスの十字架が自分の罪のためであるということを信じるならば、その血のゆえにその人のすべての罪を赦し、義と認めると約束してくださったのです。
信仰
聖書によると、イエスは十字架にかかれて3日後に復活されて、弟子たちを励まし、天に昇られました。
イエスを見捨て、十字架の意味も悟ることができなかった弟子たちはその後大いに力を受け、世界中にイエスのことを大胆に宣べ伝えました。
イエスを信じること、すなわち「信仰」を持つことは、日々イエスとともに生き、イエスのために生き、「自己中心」から「神中心」への生き方にシフトすることです。そのときに上からの豊かな恵みと力が注がれ喜びにあふれる体験ができるのです。
教会
しかしながら、この世にあって信仰を強く保ち続けるということはやさしいことではありません。
神は私たちの信仰が励まされ強められるために教会が必要であると、繰り返し語られています。
教会でともに神を礼拝し、兄弟愛を深め、成長し、神の愛を世に伝えていくこと、これがクリスチャンライフに不可欠な要素なのです。
注意が必要なのは、場所や建物が「教会」なのではなく、また日曜日に教会で持つ集まりが「礼拝」なのではないということ。「私たち自身が教会」であり、「私たちの日々の歩み、そのものが礼拝」であるという意識を持つこと、これが神が私たちに望んでおられる姿勢なのです。
心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
(マルコ12:30)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。
(Iテサロニケ5:16-18)