No.189 6月9日

昔カルト化した教会に集っていたことのある方が、その教会が最も強調していることは「神の御声に聞き従うこと」と言っておられるのを聞いて驚きました。なぜなら私たちの教会も同じことを強調しているからです。では、私たちもカルト化しているのでしょうか、いや、いやそんなことありません。そんなことに決してなりたくありません。では何が違うのでしょう、先週私は考えました。パウロはテモテに

「俗悪で愚にもつかない作り話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。」(Ⅰテモテ4:7)

と言っています。テモテへの手紙の中でパウロはテモテに何度も敬虔の大切さを教えています。「敬虔」とは神を敬い尊ぶ心です。「敬虔」はどのように育まれるでしょう、それは私はじまりではなく神さまはじまりで、神さまはどのようなお方で、私にどのように接しておられるのか、敬虔はそこから芽生えます。『境界線~バウンダリーズ~』(ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼント著/地引網出版)という本の中に、「神は私たちの『ノー』を尊重されます」とありました。皆さん、神さまに対しても「ノー」と言えるのは大事です。聞き従うことの真逆ですが。以前、幼児が成長の過程で通る「イヤイヤ期」は大事だと習いました。ノーと言える人格の成長は健全です。またノーと言えるのは、ノーと言っても受け入れてくれるという信頼があるからです。私たちは父なる神の子どもで、僕ではありません。時にノーと言います。しかし、そんな私に神さまはどのように接しておられるのか、そのことをみことばと敬虔な人を通して体験的に知っていくことにより、私たちのうちに真の神を敬い尊ぶ「敬虔」が育まれます。さて、先程の本の中に、「ノー」を言える自由からのみ本当の「イエス」が生まれる、とありました。本当にその通りです。教会の中にノーと言える自由をどこまで守れるか、それは牧師である私の大切な取り組みなのです。

カテゴリー: ボクシ・ボイス   パーマリンク

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>