2023年4月23日

残念なことですが、昨今、日本中で教会が閉じられています。基督聖協団も例外ではありません。そして閉じ方に問題も生じています。よって教団理事会は、今後に備え「教会の相応しい閉じ方検討チーム」(仮称)を立ち上げ、私も一員となりました。必要な仕事であり、仕事内容も私の賜物が生かされそうで、積極的に取り組んでいこうと思いました。しかし先日のデボーションでハッとさせられました。ネヘミヤ記1章、ネヘミヤの祈りです。ネヘミヤはバビロンで生まれ、ペルシアの王の献酌官でした。ある日ネヘミヤは、ユダからやって来た者たちから祖国の状況を聞きます。バビロン捕囚を生き残った者たちは大きな困難と恥辱の中にあり、エルサレムの城壁は崩され、門は火で焼き払われたままだというのです。それを聞いたネヘミヤは嘆き悲しみ、数日間断食して主に祈りました。その祈りを今日に適用するなら「教会回復の祈り」です。私にネヘミヤのような祈りがあるだろうか? 仕事というだけでなく、教会の困難と恥辱を私は理解しているだろうか? ネヘミヤはイスラエルの罪を自分の罪として悔い改めるほどの迫りを受けたが、私はどうか? 何よりもネヘミヤは、主は契約を守り、回復を望まれ、回復されるお方であることを、みことばから受け取って祈っています。私はどうだろうか?

「どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。『あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国の民の間に散らす。あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちに散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れて来る。』」(ネヘミヤ記1章:8-9節)。

ネヘミヤの祈りは、主とその約束に立ち返ったところから生まれました。主に立ち返るのは、先ず、私です。私に必要な備えでした。みことばの迫りに感謝します。

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