ダレイオス王は優秀なダニエルを太守に任命し、全国を治めさせようとしました。聖書はこう告げます。
「彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。」(ダニエル書6:3)。
世界にはあらゆる神がいますが、主(ヤハウェ)なる神を信じ従う者には「すぐれた霊」が宿るのです。確かに、そう思います。人は何を信じ、どのような共同体で生活するかによって価値観や世界観が定まります。ダニエルはバビロンの地にあって主を信じ歩みましたが、私たちも日本の地にあって同じ主を信じ歩んでいます。しかしそのようなダニエルに周りは黙っていません。彼らはダニエルを陥れようとダニエルの粗探しをします。しかし何も見つからず、すると彼らは「王以外を礼拝する者はライオンの穴に投げ込まれなければならない」という禁令を定め、王も機嫌よくその禁令に署名しました。ダニエルもその策略をよく分かっていました。しかしダニエルは自分の家に帰り、屋上の部屋のエルサレムの方角にある窓を開けてひざまずき、いつもと同じように日に三度、主の前に祈り感謝をささげました。「ダニエルとライオンの穴の物語」(ダニエル書6章)の始まりです。
しかし、ダニエルはなぜこのような不条理な危機にあっても、このような信仰者であれたのでしょう? その要因の一つは、ダニエルが「捕囚の身」であったからではないでしょうか。捕囚の身であったからこそ、ダニエルはすぐれた霊を宿すことができ、エルサレムに向かって日に三度祈り、主の約束を見つめ、主に感謝をささげることができたのではないでしょうか。旧約聖書のほとんどはバビロン捕囚の時代に完成したと言われています。茫漠とした地の上に「光、あれ」と神が仰せられた創世記も、あの出エジプト記も、バビロン捕囚のイスラエルの民にとって「神のことば」なのです。捕囚、困難の中にあってこそ信仰は練られ、すぐれた霊を宿し、神の栄光が現わされていくことを覚えたいと思います。