2023年1月15日

エレミヤ書26章20-24節に預言者ウリヤとエレミヤのことが記されています。時代はいよいよ悪い方向へ向かっています。南ユダ王国は空前の灯です。しかし王も民も分かっていません。その中で主のみことばを取り次いだのがウリヤとエレミヤでした。二人は都と地に向かって主の御名によって預言しました。するとエホヤキム王はウリヤを殺そうとします。ウリヤはエジプトに逃げますが、王の手下に捕まり剣で打ち殺されました。当然エレミヤの命も狙われます。しかしシャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、命は守られました。預言者の一人は殺され、一人は生かされた。不条理、ウリヤは無念、惨め、浮かばれない、しかしそうだろうか? 使徒パウロのことばが響きました。

「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:8)。

悪い方へ向かう時代、ウリヤは真剣にみことばに聴き、確信もってみことばを取り次ぎ、勇敢にみことばで戦って死にました。エホヤキム王の周りには王におもねる預言者たちがいましたが、ウリヤは彼らとくみしませんでした。一方、エレミヤは生かされました。ウリヤの死を受けて、いよいよ召命と使命を覚えたことでしょう。よって今日エレミヤ書があります。 時に時代は悪くなります。その中でキリスト者はどう生きるのか? エレミヤの命がアヒカムによって守られたように、私たちの命も守られています。生きているのではなく、生かされています。私たち教会は主のものです。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」との告白が湧き上がるほどに、主のあわれみと恵みと希望を知らされる私たちです。私は牧師として何に最も力を注ぐのか? 主のみ旨を真剣に求め、悪い時代に屈することも、おもねることなく、みことばを取り次ぎ、みことばに生きたウリヤとエレミヤが迫ってきました。

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