2022年3月20日

前々回のボクシ・ボイスで、ロシアのウクライナ侵攻に際し「特にこのような事態において、私たちは、どちら側につくのか、どの政党につくのか、だれにつくのか、その誘惑と衝動に駆られます。しかし「まず神の国と神の義を求めなさい。」これが私の立場です。」と書きました。するとある方から「まず神の国と神の義を求める」とはどのような祈りをしたらよいのか?と真摯な質問を受けました。確かにそうです。皆さんはどう考えますか? 私は、その軸として、キリストとその御心を求めること、大事なのは「神の国の民」として求めること、とお答えしました。なぜなら

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民(*同じ市民)であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

とあるからです。「立ち位置」によって見える風景は変わります。考えてみて下さい、「日本人」としてキリストとその御心を求めるのと、「神の国の民」としてそれを求めるのでは、何が違ってくるでしょう? ちょっと専門的な話になりますが、私たちの教団は「イスラエルの救い」を祈ってきました。その祈りは尊いです。しかしその歴史は悔い改めの歩みでもありました。その祈りを強調するあまり教会形成が損なわれ、イスラエル主義に陥り、裁きと分裂をもたらしました。よく「Jew first(ユダヤ人第一)」と聞きましたが、なんか、昨今の「America first」と重なってしまいます。「イスラエル」は聖書の基軸であり、私もローマ11章に基づいてイスラエル(ユダヤ人)の救いを祈ります。イスラエル(ユダヤ人宣教)に召されている団体の働きは尊いです。しかし聖書のビジョンは、「こうしてキリストは、この二つ(ユダヤ人と異邦人)をご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、~」(エペソ2:15)と、イスラエルの救いではなく、キリストにある「新しい一人の人」です。私は「新しい人(神の国の民)」として、東京から神の国と神の義を求め続けたいと思います。

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