サウルの最後(Ⅰサムエル31:1-7、Ⅱサムエル5:1-5)をとおして「いのち」について教えられました。ペリシテとイスラエルの戦い。ヨナタンはじめサウルの三人の息子は最後まで戦い死にました。攻撃の手はサウルに集中、致命傷を負ったサウルは道具持ちに言います。「私を殺してくれ。さもないと、あの無割礼の者たちがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶりものにするだろう。」。しかし道具持ちは恐れて手を下せません。サウルは自害しました。それを見た道具持ちも自害しました。それらの知らせを受けたイスラエルの兵士たちは逃げ出しました。イスラエルの人々も町々を捨てて逃げました。その後、イスラエルの全部族はダビデのもとに来て言います。「ご覧ください。私たちはあなたの骨肉です。~主はあなたに言われました。『あなたがわたしの民イスラエルの牧し、あなたがイスラエルの君主となる』と。」。見事なひるがえりです。ここに、それぞれのいのちの有り様を見ます。ヨナタンはじめサウルの三人の息子は、イスラエルの戦士、王の息子としていのちをかけました。一方サウルは、やはり、いのちより大切なのはプライドでした。侍と同じです。自己破産するより自殺を選ぶ日本の社会人のことも脳裏に浮かびます。サウルの道具持ちは、完全にサウルのマインドコントロールの配下、盲信、盲従です。そしてその他のイスラエルの兵士や住人たちは、責任の薄い立場であり当然命乞いをしました。ではダビデはどうだったでしょう? イスラエルの全部族は「あなたがイスラエルの君主となる」と称え、その通りにダビデはサウルの次の王となりました。しかしダビデは告白します。
「主は私の羊飼い。私は乏しい事がありません。」(詩篇23:1)。
ダビデは主にいのちを委ねました。ときに信仰も、自分の信念やプライド、人への盲信にすり替わります。しかし私たちは「いのちをかける」のでも「命乞いをする」のでもなく、「主は私の羊飼い」と告白できる恵みが与えられているのです。