2020年10月11日

今回の霊修会も恵みの時でした。私たちクリスチャンはみことばを食らって生きる者です。それも食卓を囲んで。霊修会のみことばの静聴と小グループの分かち合いは、まさにそのひと時です。特に小グループの分かち合いは、普段あまり話す機会のない方と分かち合える良き機会であり、まるで、からだ(教会)全体に血液が循環し、全身が温かくなるような恵みです。

さて、マルコ1章9-45節の静聴を通して私に迫ったのは、ヨルダン川でバプテスマを受ける主イエス、その主イエスに向かって「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と告げる父なる神、そしてヘロデに捕えられたバプテスマのヨハネに見る、各々の決意です。それは十字架のみ旨に向かうところの決意であり、各々の決意に各々が呼応して、主イエスは「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と宣言しているように聞こえました。榎本保郎牧師が著作『教会づくり入門』の中で、私たちが何度も「良きサマリヤ人」(ルカ10:25-37)の話を聞いても、一向にそこに生きることができないのはなぜか?と問うています。その原因は「その後」を考えてしまうから。つまり、今この人を介抱したら負担が増えるな、ちょっと大変になるな、と「その後」をあれこれ打算して躊躇してしまう。榎本牧師はこう続けます「アブラハムがイサクをささげたことについて、ヘブル人の手紙の記者は

「彼は、神が死人の中から人をよみがえさせる力がある、と信じていたのである」(11:19)

と記しています。この信仰なしに自分の子をささげてもそれは暴挙でしかありません。それと同じように、良きサマリヤ人も神への信頼なしには、あの愛の行為に生きることはできなかったのではないでしょうか。」 私はこの文章を読み、主イエス、父なる神、バプテスマのヨハネの「決意」と重なりました。ともに、みことばを食らって、みことばに迫られ、信仰によって働く愛に生きていきましょう。

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