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月別アーカイブ: 4月 2023
2023年4月30日
前回、私が教団の「教会の相応しい閉じ方検討チーム」(仮称)に任じられたこと、そしてネヘミヤ記1章のネヘミヤの祈りから、姿勢が正されたことを書きました。実務は「教会の閉じ方」の検討ですが、中心は「教会の再建」です。さて、ネヘミヤはペルシアの王からユダヤ属州の総督に任じられ、ユダヤ人の祖国再建のためエルサレムに向かいました。彼は城壁再建に取りかかります(ネヘミヤ記4章)。すると周辺から妨害が入ります。ホロン人サンバラテは「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。あれを修復して、いけにえを献げようというのか。一日で仕上げようというのか。焼けてしまった石を、瓦礫の山の中から拾って、生き返らせようというのか」(2)と言い、アモン人トビヤは「彼らが築き直している城壁など、狐が一匹上っただけで、その石垣を崩してしまうだろう」(3)と言いました。しかしネヘミヤは彼らの愚弄を祈りに変えます。「お聞きください、私たちの神よ。私たちは軽蔑されています。彼らの侮辱を彼ら自身の頭上に返し、彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。~。」(4,5)。ネヘミヤは神の約束に立ち、否定的な声を祈りで弾き返すのです。こうして城壁は半分の高さまで築き直されました。「民に働く気があったからである。」(6)が印象的です。 しかし5章に入ると、今度はユダヤ人内部に問題が生じます。城壁再建中に飢饉が起こり、経済格差に陥り、対立と抗議が吹き荒れるのです。ネヘミヤはこの事態に激しく腹を立てました。しかし彼は「十分考えたうえで」(7)、対処をします(7-13)。そして6章、ついに城壁は完成しました。ネヘミヤは声を上げます。「周囲の国々の民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が私たちの神によってなされたことを知ったからである。」(16)。私も否定的な声を祈りに変え、生じた問題には十分考え、任じられた仕事に取り組んでいこうと、再び心新たにされました。
2023年4月23日
残念なことですが、昨今、日本中で教会が閉じられています。基督聖協団も例外ではありません。そして閉じ方に問題も生じています。よって教団理事会は、今後に備え「教会の相応しい閉じ方検討チーム」(仮称)を立ち上げ、私も一員となりました。必要な仕事であり、仕事内容も私の賜物が生かされそうで、積極的に取り組んでいこうと思いました。しかし先日のデボーションでハッとさせられました。ネヘミヤ記1章、ネヘミヤの祈りです。ネヘミヤはバビロンで生まれ、ペルシアの王の献酌官でした。ある日ネヘミヤは、ユダからやって来た者たちから祖国の状況を聞きます。バビロン捕囚を生き残った者たちは大きな困難と恥辱の中にあり、エルサレムの城壁は崩され、門は火で焼き払われたままだというのです。それを聞いたネヘミヤは嘆き悲しみ、数日間断食して主に祈りました。その祈りを今日に適用するなら「教会回復の祈り」です。私にネヘミヤのような祈りがあるだろうか? 仕事というだけでなく、教会の困難と恥辱を私は理解しているだろうか? ネヘミヤはイスラエルの罪を自分の罪として悔い改めるほどの迫りを受けたが、私はどうか? 何よりもネヘミヤは、主は契約を守り、回復を望まれ、回復されるお方であることを、みことばから受け取って祈っています。私はどうだろうか? 「どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。『あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国の民の間に散らす。あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちに散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れて来る。』」(ネヘミヤ記1章:8-9節)。 ネヘミヤの祈りは、主とその約束に立ち返ったところから生まれました。主に立ち返るのは、先ず、私です。私に必要な備えでした。みことばの迫りに感謝します。
2023年4月16日
エズラ書は70年に及んだバビロン捕囚からイスラエルが帰還していく書ですが、静聴する中で、 「霊を奮い立たせた」(1:1,5) のみことばが心に響きました。神はご自身のみことばを成就させるために、召した者たちの霊を奮い立たせました。興味深いのは、最初に霊を奮い立たせたのは、バビロン帝国を滅ぼし台頭したペルシアの王キュロスでした。異国の王キュロスはみことばを読んで奮い立つのです。旧約聖書の多くはバビロン捕囚時代に完成したといわれていますが、キュロスがみことばに触れ、そこに記されている天地万物の神、主、そして主の民、その約束と計画を知ったのは想像に難しくありません。キュロスは、神の使命を受け取って霊が奮い立ち、在留ユダヤ人に向かって命じます。 「あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神がともにいてくださるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮に建てるようにせよ。」(1:3)。 これを聞いたユダヤ人たちの霊も奮い立たないわけがありません。 「神が彼ら全員の霊を奮い立たせたのである。」(1:5) と記されています。そして、ある者たちは主の宮を建てるためにエルサレムに上って行き、ある者たちは財を進んで献げて後方支援をしました。まさにリバイバルです。先日ヤフーニュースで「米国でキリスト教離れが止まらない、教会の閉鎖も急増中」という記事を読みました。教会から足が遠のき始めている人たちが感じているは、最近の教会から「燃えるような使命感」を感じない、すでにタオルを投げてしまったような教会が増えている、ということでした。確かに「タオルを投げてしまった教会」に魅力は感じません。リバイバルとは主の時、主の業です。しかし今私が問うべきは、私の霊は奮い立っているだろうか?です。いつもみことばによって霊が奮い立たち、波紋のように広がって主の民が協力していく、そのようにして、主の時に備える教会でありたいです。
2023年4月9日
マルコ15:1-20、主イエスが死刑判決を受けていく場面からのデボーション。ユダヤ最高法院の祭司長、長老、律法学者たち、また、ローマの総督ピラト、裁判に集まる群衆は、そこで何をしていたのか? じっくり読んで(静聴して)いると、「反応」という言葉が浮かび上がってきました。祭司長たちは、人々がイエスのことを「王」と言っていることに反応しました。最高法院での協議はそこに油を注ぎます。イエスを縛ってピラトに引き渡しました。ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを知っていました。しかし彼も反応し、真実な裁判は不可能でした。当然、群衆は祭司長たちの扇動の思いのままです。夫々が反応し合い、渦となり、うねりとなって十字架に至る、しかし、その只中に「反応しない」主イエスがおられます。「ピラトは再びイエスに尋ねた。「何も答えないのか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているが。」祭司長たちは多くのことでイエスを訴えるが。」しかし、イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた。」(4,5)。 私は主体的でありたいのです。しかし、悲しいかな、反応的です。反応的に我を通し、自分は正しい、逆に、自分はダメだ…、教会ですら、反応の渦にのみ込まれてしまいます。しまいには、牢に繋がれている極悪人バラバを釈放し、イエスを十字架につけろと叫ぶのです。それほどまでに正常な判断ができなくなり、盲目となる人の弱さ、恐ろしさ。しかしその只中で、主は祈られます。 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)。 この主イエスの祈りは、私たちの救いです。なぜ、主イエスは、もはや何も答えようとせず、沈黙し、十字架を忍ばれたのか? それは、私に反応せず(天の軍団を呼んで、打つこともできたのに)、反応する私と最後まで共にいて下さるためでした。そして、救い主、イエス・キリストは、死よりよみがえられました。
2023年4月2日
WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が日本優勝で幕を閉じました。妻は全く関心がありませんでしたが、私は大いに盛り上がりました。準決勝のメキシコ戦と決勝のアメリカ戦は、ライブ観戦なんて無理、特にメキシコ戦なんて、途中スマホで戦況を確認すると3-0で負けているではありませんか、もう戦況は見ない、結果を確かめることもなかなかできませんでした。 今回のWBCにどのような感想がありますか? 私が印象に残ったのは、侍ジャパン(日本代表チーム)メンバーがこぞって「謙虚」であったことです。謙虚なダルビッシュ選手や大谷選手や栗山監督の影響も大きいと思いますが、私は「時代が変わった」ことを改めて認識しました。リーダーシップやチームワークの在り方が変わったのです。誰もが他者へのリスペクト(敬意)を表します。栗山監督は「選手同士が1つにまとまるということが一番大事で、それが、うまくいかない時に監督が手伝うというふうにしか思ってない」と自身のリーダーシップを語っていました。チームをまとめるうえで、最年長のダルビッシュ選手の存在は大きかったそうです。実は、ダルビッシュ選手は今大会、調子が良くなかったそうで、それは、あまりにも皆の練習に付き合って、皆のためにやって、決勝戦の前も若いピッチャーにアメリカのバッター情報を教えていて、自分が投げるのにもかかわらず、そこまでチームに貢献して…、チームがまとまるのも納得です。 栗山監督はこうも言っていました。「個人は大事ですけど、誰かのために頑張っているという面が野球にはあるので、そういう面も伝わったらうれしいなと思います。人を助けてあげるというのは、自分が力をつけないと人を助けてあげられない。試合中も人のミスをカバーできないので。そういうのを、何回かミーティングで伝えさせてもらっちゃいました。選手たちの方が持っていましたね。」 また、こうも言っていました。「信じて、任せて、感謝する。」 謙虚さの何たるかを教えられました。