月別アーカイブ: 12月 2022

2022年12月25日

妻が名医について熱く語っていました。先ずは練馬駅前にある耳鼻咽喉科の名医です。花粉症が酷くなった妻は早朝予約に行くと、玄関に「昨日午前2時まで診察があったので、開始時間を1時間遅らせ10時とさせていただきます」と貼紙がありました。やがて妻の診察となり先生に貼紙のことを話すと「花粉症で苦しんで他県からもここまで駆けつけて来たのに、診察をしなかったら可哀そうでしょ」と、孫をおもんぱかるような言い方だったそうです。もちろん診断と処方は驚くばかりに的確です。 次は椎名町の魚の骨、異物取りの名医です。数年前、妻の喉に海老のヒゲが刺さりました。近所の二軒の病院で取れず、あまりに痛いので、ネットで調べた新宿の緊急外来に行きましたが、最新スコープ完備が売りなのにヒゲを見つけることができません。しかし妻は指で触れると言うと、「汚い手で触らないでください」と怒られ、ここでは無理だと後にしました。そして椎名町の耳鼻科を思い出したのです。女医さんで、指で触れることを伝えると、「触れるの!だったら絶対に取れます!」と言って、最新スコープなんてありません、鏡とピンセットを使ってとうとうヒゲを抜き取りました。海老の鋭い赤い破片です。妻はあまりの嬉しさに破片を手に待合室に行き、「皆さん、ここの先生がこの棘を取ってくれました。ここの先生は名医です!」と感嘆の声を挙げると、拍手が起こりました。 最後は神田小川町の靴のインソール作り名人です。妻は足裏が痛くなり、歩けなくなるほどの痛みとなり、ネットでスキーなどスポーツ靴のインソール専門店を探し当てました。オリンピック選手などアスリートが頼ってくる店です。店長さんはとても腰が低くて丁寧で、綿密に足を調べ、的確なインソールを作ってくれました。それ以降、妻の足の痛みは解消し、歩き方まで変わりました。以上、皆さんも名医の共通点がお判りかと思います。私もかくありたいです。クリスマスに、名医のことが響いてきました。

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2022年12月18日

ヨシヤ王といったら南ユダ王国の宗教改革を行った善王です。Ⅱ列王記22章にはその布石が記されています。ヨシヤは8歳で王となりました。将来善王になるか、悪王になるか紙一重です。だってポケモンにハマっている私の息子と同じ歳ですから。当然、側近たちはヨシヤを善王とするために心血を注いで育てたでしょう。「彼(ヨシヤ)は主の目にかなうことを行い、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。」(2)。側近たちは「厳しく律法的に」ではなく、「主の目にかなうことを行うことの幸い」を自ら示し、その魅力を味合わせながらヨシヤを養育したのでしょう。そしてヨシヤ26歳の時、これまでなおざりにされていた神殿の改修工事に取りかかりました。ヨシヤは忠実に工事を進める職人たちに経費精算を免除します(6,7)。ヨシヤが築いた職人たちとの信頼関係がうかがわれます。そして遂に、神殿の奥でほこりをかぶった律法の書を発見するのです。祭司ヒルキヤは、運び出された律法の書をヨシヤの前で読み上げます。すると聞き終えたヨシヤは自分の衣を引き裂き、ヒルキヤはじめ側近たちに「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。~」(13)と命じました。ここからヨシヤ王の宗教改革は始まりました。 心に留まったのは、宗教改革は、なおざりにされていた神殿の改修工事から始まったということです。ここにヨシヤの信仰と品性も見て取れます。歴代の王たちも自分の王宮は綺麗にしたでしょう。しかし神殿の修復は二の次でした。私はこのことが朝のデボーションで教えられ、丁度11月の会堂大掃除の前だったので、思いを新たに、そのモチベーションとなりました。神のわざは掃除から!しかも自分の家だけではなく、見て見ぬふりをしてしまう、なおざりにされたいたところの掃除から!「私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。」

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2022年12月11日

Ⅱ列王記18章から「信仰継承」について考えました。ヒゼキヤ王の信仰が記されています。「彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおり、主の目にかなうことを行った。」(3)、ヒゼキヤは一つひとつの案件に対して主の目にかなうことを熟慮しました。「彼はイスラエルの神、主に信頼していた」(4)、ヒゼキヤは熟慮するだけでなく主に委ねました。「彼は主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。」(6)、ヒゼキヤはみことばを熱心に学び、聞き従いました。なんとバランスの取れた信仰でしょう。その信仰は政治にも表れます。ヒゼキヤは野放しになっていた高き所と石の柱(偶像)を取り除き、モーセが作ったあの青銅の蛇をも砕きます。変革のメスを聖域にまで入れたということです。また時の覇者アッシリアの王にもくみせず、ペリシテを討って領土を広げます。このようなヒゼキヤの信仰は如何にして培われたのか? 2節に「彼の母の名はアビといい、」と母の名が特別に記されています。やはり母の信仰の影響は大きいのでしょう。しかし5節には「彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。」と、信仰継承は簡単ではないことが見受けられます。確かに、聖書を読むとイスラエルの王たちの信仰継承は継ぎはぎだらけです。敬虔な親であったとしても子にその信仰が継承されるとは限りません。ではヒゼキヤの信仰はどこから来たのでしょう? 私は「信仰も神からの召しである」と教えられました。母の祈りがあります。他にも様々な要因があったことでしょう。しかしヒゼキヤの信仰は母から継承したのではなく、主から与えられ、ヒゼキヤは受け取ったのです。そして主の召しにふさわしく歩むことに努めたのです。私たちは先代の信仰者に感謝し、模範としつつ、しかし次のみことばが響いてきます。 「あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。」(エペソ4:1)。

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2022年12月4日

救い主誕生の預言は次のみことばから始まります。 「しかし、苦しみのあったところに闇なくなる。」(イザヤ9:1)。 ここから教えられるのは「苦しみ」よりも「闇」の方が深刻であるということです。闇は苦しみを生み出しますが、苦しくとも闇がないことがあります。光があれば何とかなるのです。そして救い主は「光」です。救い主の光はどこに輝くのでしょう?「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」(1,2)。異邦人の民ガリラヤです。闇の中を歩み、死の陰の地に住む「片隅の民」の上に。そうです、私たちの上に救い主の光は輝きました。預言は続きます。「あなた(主)はその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。」(3b-5)。主はご自身の国民を増やし、その喜びを増し加えられます。出エジプトの恵みが回顧されています。あの勝利の喜びが私たちのうちに増し加えられると!25日のクリスマス礼拝では3名の方が洗礼を受けられますが(12/4日現在)、この喜びです。私たち教会はここに歩んでいくのです。 以前、香港のベン・ウォン師がNGCの礼拝で言いました。「光が光の中で輝いても意味がない。闇の中で輝いてこそ意味がある。闇の中に出て行きなさい。あなたがたは世の光です。」 「苦しみ」よりも「闇」の方が深刻です。「闇」は「光」によってのみ取り除かれます。私たち教会は「救い主の光」を分かち合っていきましょう。

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