-
最近の投稿
最近のコメント
アーカイブ
- 2023年9月
- 2023年8月
- 2023年7月
- 2023年6月
- 2023年5月
- 2023年4月
- 2023年3月
- 2023年2月
- 2023年1月
- 2022年12月
- 2022年11月
- 2022年10月
- 2022年9月
- 2022年8月
- 2022年7月
- 2022年6月
- 2022年5月
- 2022年4月
- 2022年3月
- 2022年2月
- 2022年1月
- 2021年12月
- 2021年11月
- 2021年10月
- 2021年9月
- 2021年8月
- 2021年7月
- 2021年6月
- 2021年5月
- 2021年4月
- 2021年3月
- 2021年2月
- 2021年1月
- 2020年12月
- 2020年11月
- 2020年10月
- 2020年9月
- 2020年8月
- 2020年7月
- 2020年6月
- 2020年5月
- 2020年4月
- 2020年3月
- 2020年2月
- 2020年1月
カテゴリー
メタ情報
月別アーカイブ: 11月 2022
2022年11月27日
コロナ禍により始まったオンライン礼拝はすっかり定着しました。「災い転じて福をなす」ではありませんが、オンライン礼拝は、Zoom会議同様、教会の画期的なあり方となりました。しかしオンライン礼拝が始まってしてしばらく経った頃、諸教会の牧師たちの口から出てきた心配は「このまま会堂に集まらなくなるのでは」というものでした。NGCの役員会でも同様の心配が挙がりました。ただ、集えなくなったからこそ、集えることの恵み、集うことの大切さを改めて教えられたのも事実です。とはいえ、先日ある方がこう言われました。「オンライン礼拝に甘んじて会堂に行かなくなってしまった。足腰が弱って億劫になったこともあるが、オンライン礼拝がなければ、以前のように普通に歩いて行くと思うのだが。」 正直な思いです。 これに関連して、最近私は「死」について思い巡らす機会がありました。もし死がなかったなら、生きることをそこまで考えていただろうか? たとえば、受験生であれば、受験までの期間を必死になって勉強します。牧師であれば、礼拝説教のために必死になってみことばに取り組みます。私たちは「終わり」や「しばり」があるからこそ、今を生き生きと歩め、大切なことを学び、身に着けることができます。「生」は「死」によって意味が与えられています。逆説の論理です。礼拝についても同じことが言えるのではないでしょうか。さて、役員会では、コロナ禍が終息したら(インフルエンザレベル)、これまでの礼拝CDやDVDの送付と同様、礼拝に集うことのできない方々(申請者)にオンライン礼拝URLを送信するという方向性を検討しています。言うまでもなく、礼拝は共同体の営みであり、一堂に会することが原則ですから。 「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」(へブル10:25)。
2022年11月20日
皆さんは、一生懸命積み上げてきたものが一瞬にして崩れた、という経験はありますか? 最近私はその経験をしました。その中で、内村鑑三の講演録『後世に残す最大遺物』は光となりました。内村鑑三は、後世に残す最大遺物とはお金でも事業でも思想でもなく、勇ましい高尚なる生涯だと述べ、例話として、『フランス革命史』を記したトーマス・カーライル(英国の歴史家)を挙げます。カーライルはこの本を書くのに一生をかけました。何十年もかかってやっと望み通りの本が書けたので、清書して原稿にしました。そんなとき、遊びに来た友人が「面白そうだから、今夜一晩かけて全部読みたい」と言ってきて、感想も聞きたかったのでカーライルは原稿を渡しました。友人は明け方までかかって読み終わり、本を机に置いて寝てしまいました。そこへ家政婦がやってきて、ストーブの火を焚こうとして、机の上の原稿をゴミだと思い、それを丸めてストーブに入れて燃やしてしまったのです。 さて、その事実を知らされたカーライルのショックたるや…。彼は10日間放心状態、その後は猛烈に怒りがこみ上げ、心を落ち着けるためにつまらない小説に読みふけりました。やがて冷静を取り戻したカーライルは自分にこう言い聞かせます。「お前は愚かな人間だ。お前の書いた『フランス革命史』はそんなに立派な本ではない。一番大事なのはお前がこの不幸に堪えて、もう一度同じ本を書き直すことだ。原稿が燃えたくらいで絶望するような人間の書いた『フランス革命史』は出版しても世の中の役に立たない。だからもう一度書き直せ。」 内村鑑三は言います。「カーライルが偉いのは『フランス革命史』を書いたからではなく、原稿が燃えても、同じものを書き直したからです。失敗したり、挫折したりしても、事業を捨てず、気持ちを立て直し、勇気を出して、もう一度事業に取り組まなければなりません。書き直すことでそれを教えてくれたカーライルは、後世にとても大きな遺物を遺したことになります。」
2022年11月13日
『もしイエス様が市長だったら』(著 ボブ・モフィット)の中に、ぜひ皆さんと共有したいと思った文章があります。「湖のような教会」と「川のような教会」です。「それは教会の立地条件のことではなく、働きにおける思想を表現しています。湖には巨大なものもありますが、その可能性は限定的で、それは大きくなるか、もしくは小さくなるかのいずれかです。さらに、湖には「淀む」危険性があります。これに対して、川はどこかに流れていきます。それは勢いがあり、流路を変えることができ、人々をその流れに場所に運ぶことができます。湖のような教会はひとりでも多くの人を集める場所であり、人々の人格や奉仕における成長よりも、湖のサイズによって成功が定義されます。川のような教会は、その流路にいる人々に影響を及ぼし、その影響は川岸を超えてあふれ流れます。「教会に何人いるのか?」というのが湖教会の質問であり、「来た人々にどんな変化があったのか?」というのが川教会の質問です。「集会に何人が参加したのか?」というが湖教会の思想であり、「その集まりは人々に影響を与えたのか?」というのが川教会の思想です。」(P.220)。私はこの文書にとても励まされ、またビジョンを再確認しました。私たちNGCのビジョンは「川」です。テーマ「砂漠に川を、オアシスを」~“かしら”と“からた”につながり“みたま”によって歩ながら~。 「この川が入る所では、すべてのものが生きる」(エゼキエル47:9)。 聖書のはじめ「エデンの園」からは一つの川が湧き出ています(創世記2:10)。聖書の終わり「新しいエルサレム」の中央にも「いのちの水の川」が流れています(黙示録22:1,2)。そして、その間にある私たち教会は「川」なのです。NGCは、1955年、70歳の森五郎、まつよ牧師ご夫妻の開拓により、桜台の「家の教会」から始まりました。そこから流れ出るいのちの川は、足首、膝、腰に達して泳げるほどに(エゼキエル47章)、その流域は遠く中東にまで広がっています。ハレルヤ。
2022年11月6日 中東短期宣教旅行記⑨
4.まとめ 最後に、今回の中東短期宣教の私の象徴となった2つを挙げて閉じたいと思います。第一は、滞在した家のテラスから遠くに見えた「ヘルモン山」です。聖書に登場する有名な山です。数年前、私はイスラエルから北にその山容を見ましたが、今や同じ山容を南に、つまり反対側から見ているのです。反対側から見るなんて想像だにしませんでした。しかし今そこにいるのです。そして反対側の人々の暮らしに触れ、そこにあんちゃんがいて、キリストのからだが宣教しているのです。感動しました。 第二は「足湯」です。あんちゃんのたっての願いでした。そこにはニューシティーの皆さんにリラックスしてもらいたいとの思いがあります。さらにキリストに倣って彼らの足を洗い、キリストを証したいという祈りがありました。しかし私たちが足湯をできるのは、これまでに宣教師たちがニューシティーの人々にキリストの愛をもって仕えてきたからにほかありません。宣教師たちは、苦難をくぐり抜け、なお他国で肩身の狭い、希望を見いだせない現実を生きるニューシティーの難民の人々に関心を寄せ、笑顔で声をかけ、友だちとなり、家庭を訪問し、アラビア語の先生になってもらい、子どもたちに英語を教え、誕生日を祝い、癒しを祈り、彼らに仕えてきました。前記したアラビア語の先生のアハマド&ヒアム夫妻の妻のヒアムは、最近夫のアハマドが家事をするようになった、と言いました。それは彼らが宣教師たちと一緒に過ごすようになったからでしょう。男性宣教師たちは家事をします。この宣教師たちの仕える姿に感化されないわけがありません。 「しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。」(ローマ10:14,15) 「中東短期宣教旅行記」 完