月別アーカイブ: 6月 2022

2022年6月26日

講演会『教会でもがん哲学カフェをはじめよう』に参加してきました。講師は順天堂大学医学部教授で病理学者の樋野興夫(ひの おきお)氏。示唆に富んだ感銘を受ける講演でした。「がん哲学」とは何か? 今、二人に一人ががんになる時代だそうです。しかし医学も日進月歩で進歩しているので、告知されてもすぐに人生が終わるわけではありません。すると「告知された後、がんをいかに受け入れて、がんと共にいかに生きていくか」という課題が大きくなります。これは当人だけでなく、家族や友人など、患者と親しい方々の課題でもあります。「がん哲学」とはこの課題に取り組むために樋野先生が作った造語です。樋野先生は2008年に「がん哲学外来」を創設し、その後、がん患者の不安と悩み、その気持ちを受け止める対話の場として「がん哲学外来カフェ」が続々と生まれ、現在、全国180箇所で展開されています。切実なニーズがあるということです。がん哲学にとって重要なみことばは、 「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(ヨハネ9:3)。 これはイエスの弟子たちが目の見えない人を前にして、誰かが何かの罪を犯したために目が見えないのだろうか?との問いに対するイエスの応答です。がんになると「なぜ、この私が」と問い、「何が悪かったのか」と過去を振り返ります。でも必要なのは、過去を振り返ることではなく、未来を見ること。これから、いかに生きるかを考えること。「なぜ(why)」ではなく「いかに(how)」へ、生きる方向転換をしなければなりません。主イエスは「神の業がこの人に現れるためだ」と言われました。つらい現実の中でも、自分に与えられている使命があると知れば、顔つきは変わり、生きることに前向きになります。これががん哲学外来の目指すところだと樋野先生は言われました。「病気であっても、病人ではない」と、穏やかに言われるお姿が印象的でした。樋野先生の著書『いい覚悟で生きる』(小学館)他、おススメです。

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2022年6月19日

箴言7:6-23は、浅はかで良識のない一人の若者を見つめます。たそがれどき、若者が彼女の家に行くために路地を通っていると、一人の遊女が誘惑をしてきました。「あなたを探し求めて、やっと見つけました。私は長椅子に敷き物を、あや織りのエジプトの亜麻布を敷き、寝床を没薬、アロエ、シナモンで香らせました。さあ、私たちは朝まで愛に酔いしれ、愛の喜びを互いに味わいましょう。夫は遠くへ旅に出ていて、家にはいませんから。」 若者は彼女のことはそっちのけ、鼻の下を伸ばしてついて行きます。「最後は矢が彼の肝を射抜く。それは、自分のいのちがかかっているのを知らずに、鳥が罠に飛び込むようなものだ。」と箴言は結びます。 昔、私も同じような誘惑に遭いました。22歳の頃、北海道帯広のアパートで独り暮らしをしていたときのことです。冬の夜中の1時頃、だれかが玄関をノックしてきました。恐る恐るドアを開けると、一人の女性が立っています。そして、まさに箴言の遊女のように誘惑をしてきました。私は何とか拒否することができました(数日後に再びやって来た。多分バックにヤクザか何かがいたのだろう)。箴言のデボーションで、そのときのことを思い出しました。あのとき自分はなぜ拒否することができたのだろう? 静に思い巡らしてみると、それは「神を恐れる」思いであったと行き着きます。それは両親はじめ、帯広の教会の兄弟姉妹、「神を恐れる人たち」に囲まれていたからでもありました。アインシュタインは、「教育とは、学校で学んだことをすべて忘れた後に残るものである」と述べています。箴言はこの若者のことを「浅はかな者」と言っています。彼の内には「浅はかなもの」しか残っていなかったのでしょう。私の内には「神を恐れる」ことが残っていました。それはひとえに、両親と教会の人たちのお陰です。私は子どもたちに何を教えるのか? 「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。」(箴言9:10)。 そのことをどう教えるのか?

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2022年6月12日

「主に感謝することは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名を、ほめ歌うことは」と始まる詩篇92篇は、主への感謝の詩篇です。読みながら山口博兄のことを思いました。山口さんは御年85歳、毎週の礼拝を喜びとしています。いつも山口さんの口から溢れるのは「いや~神さまに感謝です。」 しかし、その山口さんが礼拝に来られなくなりました。奥様がご病気で入院され、幸いに退院することができましたが、自宅での介護が始まりました。私は電話をしました。するといつもの張りのある山口さんのお声。私は安心して様子を伺うと、やはり山口さんの口から出てきたのは「いや~神さまに感謝です。」 礼拝に行けないのは寂しいけれど、区の福祉の方が奥様の介護ベッドを設置してくれて、ヘルパーさんが毎日三回も来てくれて、週に一度はデイサービスにも行けて、奥様はヘルパーさんに何度も「ありがとう」とお礼を言っていて、奥様の心は以前よりも豊かになったとのことです。そして、山口さんは声を弾ませ言いました。「何よりも、私は妻の世話ができることが本当に嬉しいんです。今が妻と一番良い関係です。いや~神さまに感謝です。」 どうして山口さんはこうも感謝ができるのでしょう。それは、これまでも感謝をしてこられたからです。感謝とは何でしょう? それは自分始まりではなく相手始まり、神さま始まりです。神さまがこのように私を支え、導いて下さっている、その恵みを見つめるから感謝が溢れるのです。 「正しい者は、なつめ椰子の、木のように萌え出で、レバノンの杉のように育ちます。」(12)。 「正しい者」とはだれでしょう? 主なる神こそ正しいお方です。そしてその主に感謝をしながら歩む人のことです。 「彼らは、主の家に、植えられ、私たちの、神の大庭で花を咲かせます。彼らは、年老いても、実を実らせ、青々と生い茂ります。こうして告げます。「主は、正しい方。わが岩。主には、偽りがありません。」(13-15)。

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2022年6月5日

あくまでも個人的見解ですが、私は時々衝動的に思うことがあります。なぜヨーロッパの街並みは綺麗で、日本(アジア)の街並みは雑然としているのだろう? 私はNHKの『世界ふれあい街歩き』という番組が好きです。特にヨーロッパの街歩きのときは、お洒落でエレガントで統一感があって、なんて綺麗なのだろうとため息が出ます。もちろん裏側もあるでしょう。しかしその風景に魅了されます。同じくNHKの番組『カールさんとティーナさんの古民家村だより』も興味津々です。新潟の限界集落に移り住み、20年かけて古民家を次々に美しくよみがえらせてきた、初老のドイツ人建築家夫妻の生活を追う番組です。田舎によくある、くたびれた古家のトタンを剥がし、品のあるピンクや水色の漆喰で塗り、元は立派な柱や梁なので、それらと調和させ、見事な美しい家によみがえらせます。そのような古民家が山里の棚田と木々の間に10軒程建っていて、そこに暮らしがあって、その風景はおとぎ話の世界です。こういうことは日本人にはできないよな~と思いながら観ています。その夫妻が住む家もまあ素敵なこと。 しかし先日、西洋人と日本人の価値観の違いが分かるエピソードを聞きました。ある日本人女性がお菓子作りの勉強にドイツに留学しました。そこで分かったのは、ドイツの主婦は、料理をすることよりもキッチンを磨く方に時間をかけること。訪れた家庭のほとんどのキッチンは、新品かと思うほどピカピカです。揚げ物などはキッチンが汚れるからしないそうです。これがドイツ人主婦の総意かどうかは分かりませんが、この価値観は日本人にはありません。キッチンは美味しい料理を作るためのものです! なるほど、日本の街並みは雑然ですが、日本の料理は味も見た目も芸術品です。欧米人は日本のお弁当に驚くそうですね。先日のハイキングで西洋人グループを見かけましたが、彼らの昼食は普通にポテトチップスでした。それも立ち食い。アンビリーバボー。価値観の違いが面白いです。

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