月別アーカイブ: 5月 2022

2022年5月29日

屋外でのマスク着用が緩和されました。欧州や米国の方がコロナ禍は深刻だったにも関わらず、マスクの解放は先であることに複雑な思いもありますが、兎に角、一連の動きを俯瞰する中で、海外のジョークを思い出しました。「ある豪華客船が航海の最中に沈みだした。船長は乗客たちに速やかに船から脱出して海に飛び込むように、指示しなければならなかった。船長はそれぞれの外国人乗客にこう言った。アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄ですよ」 イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士です」 ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則となっています」 イタリア人には「飛び込むと女性にもてますよ」 フランス人は「飛び込まないでください」 日本人には「みんな飛び込んでいますよ」」。言い得て妙です。 私たち日本人は無意識の内に人の目を気にし、周りの人に嫌に思われないよう、迷惑をかけないよう振る舞います。同調圧力が大きな動機付けです。ところが、街で見かける西欧人の多くも白いマスクをしています。彼らの母国では既にノーマスクでしょうに。面白いです。つまり人とは大きな雰囲気や流れに順応していく、種類は違えども万国共通、人はみな同調圧力の中で調整しながら歩むのです。因みに、宣教師のサイモンさんにマスクのことを伺ったところ、「日本人がマスクをしているなら、私もマスクをします。」と言われました。「ユダヤ人にはユダヤ人のように」(Ⅰコリント9:20)です。頭が下がります。 言うまでもなく、日本人のこの国民性には長所も多くあります。ただ先日のニュースで専門家は言っていました。「これからは、ここではマスクを着けるか外すか、自分で判断していきましょう。暑い夏が近づいていますから」 皆さん、熱中症に注意しましょう。さて、私たちの主は、厳しい同調圧力の中を毅然と歩まれました。私たちも、人の目より、みことばを第一に気にする者でありたいと思います。

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2022年5月22日

霊修会は大変恵まれました。ヨハネ15章から、ぶどうの木なる主イエスに、皆でじっくりとどまりました。15章の後半は、主イエスにとどまる弟子たち(教会)が、世の中で遭遇する事態に対する主イエスの備えです。 ヨハネ15章「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておきなさい。」(18)。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。」(20)。 確かに、主イエスが律法学者やパリサイ人たち、果ては群衆から憎まれ迫害されたように、私たちキリストのからだも憎まれ迫害を受けるのです。今日の日本に迫害はありません。しかし過去にはありました。今日私たち教会は世の人々に良い印象を与えようと努めていますが、迎合しないように注意もしなければなりません。あなたがキリストに倣って発言し行動するなら、現在の律法学者やパリサイ人と衝突するのです。もし隣で虐げられている人に対してキリストに倣うなら、あなたも虐げられるかもしれません。霊修会のグループタイムで分かち合った穂本さんは、新聞社に勤めておられます。イデオロギーも発信する職場での、キリスト者としての葛藤や戦いを聞きました(因みに、その後にAmazon Primeで観た映画『ペンタゴン・ペーパーズ』に感動しました)。私は土木工事をしていた時の、盛り上がる下ネタへの葛藤と戦いの経験を話しました。皆さんは如何でしょうか? 私たちが主イエスにとどまるなら、主イエスの経験をします。しかしヨハネ15章は次のみことばで結ばれます。 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証してくださいます。あなたがたも証します。初めからわたしと一緒にいたからです。」(26,27)。 心配する必要はありません。御霊が証を導いて下さいますから。よって私たちの焦点は、どこまでも、ぶどうの木なる主イエスにとどまるのです。そうすれば多くの実を結びます。たとえ迫害の中にあっても。

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2022年5月15日

書籍『ヒトの壁』の著者である養老孟司氏は、この世界は「こうなった」「なるべくしてなった」という結果の集積、算数で言えば解答集、私たちは解答集に生きていると述べています。引用すると、「現生生物は隕石の衝突やら氷の球やら、さまざまな極端な状況にすら出会い、しかもそれを通して生き延びてきた。現にわれわれが見ている生物界は、ゆえに生物が提出した解答であり、その意味で解答集である。私たちは、生物の解答の集まりに生きている。夏の広葉樹の葉の茂りを見るとよくわかる。枝葉の伸び方は、あれこそ自然の出した答えなのだ。光を得ようと枝葉を広げているではないか。」 なるほど、確かに。しかし考えてみると、これは私たちキリスト者の視点ではなでしょうか。聖書は歴史をHis story(神の物語)と教えます。神がアブラハムに告げられた約束を、神ご自身が成就される物語、つまり今日の世界は、神にあって「なるべくしてなった」神の解答集とも言えます。私たちは必死に生きていますが、生かされています。先日、ロシアによるウクライナ侵攻の報道に胸が痛みました。しかし詩篇65篇のデボーションから新たな視点が与えられました。 「あなた(神)は地を訪れ 水を注ぎ これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。あなたは こうして地を整え 人々の穀物を備えてくださいます。地のあぜ溝を水で満たし その畝をならし 夕立ちで地を祝福されます。」(詩篇65篇9,10節)。 TV画面の戦火の背後に映る、木々や草花に目が留まりました。人間の罪により傷んだ大地、しかしなお木々は生い茂り、草花が芽吹いています。ウクライナは大穀倉地帯です。なお大地は生き延び、人は生きることができます。全被造物を生かされる主なる神がおられます。神は罪に突き進む人間と傷んだ被造物を贖うために、御子をこの地に与えられました。イエス・キリストの十字架と復活、そして新緑に輝く大地は神の解答なのです。そして私たちは神の物語の登場人物です。

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2022年5月8日

『もしイエス様が市長だったら』(ボブ・モフィット著/陣内俊訳)、第二部の序章にある「教会による社会の変革の4つの前提」が心に留まりました。前提1:この世界は深刻な崩壊の中にあり、人類の英知や物資的資源でその破れを繕うことは不可能である。前提2:国の癒しは、神が超自然的に介入することによって、また神の民がその召しに従順に応答し、神の御心に沿っていきることによってもたらされる。 確かにロシアのウクライナ侵攻を見ても、他にも世界中で進行する様々な崩壊を見ても、私たち人類がその破れを繕うことは不可能であることを実感します。よって祈りが生まれます。「神が超自然的に介入すること」に希望を託します。前提3:聖書は私たちの癒しのために与えられた神の啓示である。前提4:教会は、原罪によって傷つき崩壊した万物を癒すという神の御心を成し遂げるための主要な執行機関である。 しかしボブ氏は以下を追記します。 「キリストの再臨のときまで、神のご計画が完全に成就されるのを見ることはないでしょう。そのときまで、教会は歴史における神の目的である「万物を御自分と和解させる」(コロサイ1:20) ことを神の代理として実行し追い求めるのです。」 私たちは「ああすれば、こうなる」と考えますが、「ああしたが、こうならない」のが現実です。しかし「そうこうしているうちに、こうなった」も然りです。私たち教会がこの地上に「神の国」を建て上げることは不可能です。しかし、かしらなるキリストに従い、私たちはなお破れの狭間に立ち、破れを繕います。そこで苦悩します。しかし重荷を負い過ぎません。御心を成し遂げられる主を見つめていますから。キリストの再臨を待ち望んでいますから。私たち教会は人々に神の国を示す「窓」なのです。 「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。」(マルコ4:26,27)

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2022年5月1日

詩篇91篇の最後の神のことばが心に留まりました。 「彼がわたしを愛しているから わたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているから わたしは彼を高く上げる。~ わたしは 彼をとこしえのいのちで満ち足らせ わたしの救いを彼に見せる。」(14-16)。 「彼」がだれだかわかりませんが、神の内には、彼のことを助けて上げたい、祝福したいという思いで満ちています。その理由は「彼がわたしを愛しているから」と神は言われます。彼はどのように神を愛したのだろう? 私は神をどのように愛しているだろうか? 91篇は次の告白から始まります。 「いと高き方の隠れ場に住む者 その人は 全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「私の避け所、私の砦 私が信頼する私の神」と。」(1,2)。 「いと高き方の隠れ場」、これは公の場ではなくプライベートルームです。主イエスも、祈るときは会堂や大通りではなく、家の奥の自分の部屋に入って祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくだると教えておられます(マタイ6:5,6)。大事なのは、公の場ではなくプライベートルームです。ある方が、オンライン礼拝の時に、ちょっと家事の用事で席を立ったそうです。すると未信者のご家族の一人が、「神様を礼拝している途中にそんなことをしてよいのか、教会の礼拝ではしないでしょうに」と注意され、ハッとさせられたそうです。オンライン礼拝、ついついパジャマのまま、寝転んで、または食べながら・・・。私たちは公の場では装いますが、プライベートルームでは怠惰です。しかし「彼」は、「いと高き方の隠れ場」「全能者の陰」で、つまりだれも見ていないところでこそ神への愛を表しました。神がそのような彼を助けて上げたい、祝福したいと思うのは当然です。はたして私は、だれも見ていないプライベートルームで、神様にどのような愛を表しているだろうか?

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