月別アーカイブ: 4月 2022

2022年4月24日

ザアカイさんの話(ルカ19:1-10)から教えられました。 「それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。するとそこに、ザアカイという名の人がいた。」(1,2)。 あらためて読んでみると驚きます。エリコには沢山の人がいますが聖書はザアカイにピンポイント、ズームインです。もちろんザアカイは全く知りません。しかし神は既にザアカイを見つめておられた。ザアカイは当時ユダヤを支配していたローマの取税人のかしらで、金持ちでした。同胞からは売国奴、罪人と呼ばれ、彼らは徴税を上乗せして私腹を肥やすのが常でした。なぜザアカイは取税人になったのか。色々あったのでしょう。たとえ罪人と言われても金持ちになることを選びました。しかしなお思うことあり、ザアカイはイエスを見ようとします。しかし背が低く見ることができません。先回りをしていちじく桑の木に登りました。この行動にザアカイの人生を見るようです。コンプレックスからザアカイのアイデンティティは形成され、「先回りをする」という生き方を培い、その結実が取税人のかしら・・・。イエスが近づいて来ます。するとイエスは木の上のザアカイを見上げて言いました。 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(5) え、先回りしたはずなのに!イエスを見るだけだったに!しかも私の名前を知っている! これがイエスとザアカイの出会いでした。イエスの絶妙なタイミング、イエスの語りかけに耳を傾けられる時でした。私たちもザアカイです。あなたが全く知らなくても、「することそこに、」と、あなたへの主のまなざしとご計画とタイミングがあります。 「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」(エペソ1:3,4)

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2022年4月17日

ウクライナの兄弟姉妹は、今年のイースターをどのような思いで迎えているのだろう。イースターどころではないのでは。いや、そんなことはない。イースターこそ私たちのいのちであり希望です。詩篇69篇、ダビデは敵の攻撃により深い泥沼に沈みました。しかしそこから生じるダビデの祈りに目が留まります。「あなたはよくご存じです。私への嘲りと 恥と恥辱とを。私に敵対する者はみな あなたの前にいます。」(19)。祈りによってダビデの視野は引き上げられ、憎たらしい敵をも「神の視点」で見つめます。そして「あなたの憤りを 彼らの上に注いでください。燃える怒りを 彼らに追いつかせてください。彼らの宿営が荒れ果て その天幕から住む者が絶えますように。~ どうか 彼らの咎に咎を加え 彼らをあなたの義のうちに入れないでください。」(24-27)と神の裁きを叫びます。しかし、依然ダビデは泥沼の底です。「私は苦しんで 痛みの中にいます。神よ 御救いが私を高く上げますように。」(29)。すると突然、「歌をもって 私は神の御名をほめたたえ 感謝をもって 私は神をあがめます。」(30)とダビデの祈りは一新します。その後も神への賛美と宣言が最後まで続きます。ダビデに何があったのか?激しい苦難で気がふれたのか? いや、ダビデは泥沼の底になお残る「一つの光」を見つめたのです。それはメシヤ預言です。救世主到来の約束と待望です。それ以外ダビデの祈りが一新される根拠はありません。ダビデは「神の御名」をほめたたえました。私たちは「イエスの御名」をほめたたえます。一切の罪を背負って十字架で死なれ、三日目に死よりよみがえられたキリスト(メシヤ)の御名を。かの日には、最後の審判を下される王の王、主の主を。ゆえに、深い泥沼の底に沈もうとも、私たちの祈りは一新します。ウクライナの兄弟姉妹はいよいよ益してイースター礼拝をささげていることでしょう。私たちも共に。「歌をもって 私は神の御名をほめたたえ 感謝をもって 私は神をあがめます。」

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2022年4月10日

『もしイエス様が市長だったら』(ボブ・モフィット著/陣内俊訳)を読みましたか? 2章まで読み進めると、ボブ先生のこの本を書いた理由が分かります。2章の終盤に載っている、ネパールでの牧師セミナーの事例が分かりやすいです。集まった牧師たちを小グループに分け、模造紙に教会やクリスチャンのいない村の地図を書いてもらい、「もしあなたがこの村に5年間住むなら、あなたはどのように福音を伝えますか?」「5年後にあなたがこの村で見たい結果は何ですか?」との質問の答えを地図に描いてもらいました。完成した絵には、人々と関係を築き、最初は個人伝道から始めて次に大衆伝道をおこない、教会を設立する様子が描かれています。全てのグループは、5年後に村に沢山のクリスチャンがいて、沢山の教会が生み出されているのを見たいと言いました。 さて、その後「では、もしイエス様がこの村の村長だったら、何をなさるでしょう?」と質問しました。 牧師たちは戸惑いました。「イエス様は何をなさるのだろうか?」「村にトイレを建設するかもしれませんね。学校を建てるかもしれない。衛生的な水を供給するかもしれない。いや、まずは病院だろう…」 私たちも改めて考えたいと思うのです。「神の国が広がる」「リバイバルが起こる」とは具体的にどのようなことでしょう? これがボブ先生の問題提起です。私たちの福音理解は本当に「聖書的」だろうか? 主イエスの大宣教命令は、大弟子化命令(マタイ28:18-20)、つまりキリストの弟子への変革です。もちろん、クリスチャンが増え、沢山教会が建つことは素晴らしいです。同時に、私たちは遣わされている場所で、世の光、地の塩であるだろうか? 目の前の破れ口に立って祈り、癒しと変革に取り組んでいるだろうか? ゆえに、私たちNGCのビジョンは『砂漠に川を、オアシスを』エゼキエル47:9なのです。私たちは、遣わされている夫々の場所で、もしイエス様が市長(遣わされている現場の私)だったら? を共に考えたいと思います。

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2022年4月3日

イエスがベタニアのシモンの家で食事をしておられると、ある女が非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注ぎました(マルコ14章)。 当然ですが、この行為は簡単ではありません。重い、深い行為です。彼女は、じっと静まり、深く主イエスを思い巡らし、この犠牲を伴う行為に至ったのです。この女は、イエスの教えに聞き入ったあのマリアです。とかく霊的な証をされるのは女性です。15年程前に天に召された後藤文子姉のことを思い出しました。後藤姉の生涯はほとんど療養所でした。私は黎子先生の付き添いで何度かお会いしたのですが、毎回、後藤姉が病床から話される神の臨在溢れる信仰の証に圧倒されました。言葉では表現できません。まるで、祝福された聖会に参加したかのようでした。霊が燃やされるのです。さて、マリアのその行為を見た何人かは憤慨し「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリ以上で売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」と彼女を厳しく責めました。無駄かどうか、この視点は男性に多いです。えてして信仰の行為は、祈りにしても、礼拝や献金にしても、側からは無駄に見えます。するとイエスは言われました。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良きことをしてくれたのです。」 マリアはじっと静まり、深く主イエスを思い巡らし、今自分ができる「主のために良きこと」を決意したのです。それは、主の埋葬の備えでした。マリアは十字架に向かわれる主とその御心を見つめたのです。勝利でなく十字架、御子が一切の罪を負われる十字架、十字架に勝利がある。マリアは、十字架のキリストに高価な香油を注ぎました。この行為は無駄でしょうか? 今、ウクライナにもロシアにもマリアがいると信じます。「キリストを証しする」とは、十字架の主をじっと見つめて決意する、あなたの「主ために良きこと」なのです。

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