月別アーカイブ: 3月 2022

2022年3月27日

「まず神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6:33) をなお思い巡らしています。使徒23章、パウロがエルサレムの最高法院で「私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。」と弁明すると、大祭司アナニヤは家来に彼の口を打つよう命じました。先日も同じようなことが起こりました。ロシアの国営放送のニュース番組中、この戦争に抗議する文章を掲げた女性が捕まりました。彼女も健全な良心に従ったのでしょう。しかし彼女を黙らせました。大祭司アナニヤとプーチン大統領が重なります。いや、私たちも「この人を黙らせたい」と思ったことはないでしょうか。そして強者が弱者を黙らせます。その後の最高法院はサドカイ派とパリサイ派で二つに割れます。パウロが仕掛けたのですが、サドカイ派は復活も御使いも霊もないと言い、パリサイ派はいずれも認めていて、そこから論争が起こり、最終的にこの審議は崩壊しました。ここにも人の愚かさを見ます。意見の違いから始まります。最初は冷静です。しかし徐々に「論破したい。負けたくない」「私たちの側が負けるわけにはいかない」さらに、「あの言い方、あの態度は腹が立つ。ぎゃふんと言わせたい」と、当初の動機の他に様々な動機も加わり、初めの動機はどこへやら、メンツの戦い、妬みや恨み、そして派閥の戦いに。これも私たちの現実です。特に、怒りと恨みは人を惨忍にさせ、戦いをエスカレートさせます。パウロはこのような最高法院、人の愚かさの前にうなだれたでしょう。するとその夜、主がパウロのそばに立って言われました。「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(11)。ここに「まず神の国と神の義を求める」ことを教えられました。私たちは論争と対立の渦中にあって、深呼吸をし、まず「キリストを証する」ことに努めるのです。姿勢と行動と言葉をもって。パウロが破れ口に立ち、キリストを証したように。

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2022年3月20日

前々回のボクシ・ボイスで、ロシアのウクライナ侵攻に際し「特にこのような事態において、私たちは、どちら側につくのか、どの政党につくのか、だれにつくのか、その誘惑と衝動に駆られます。しかし「まず神の国と神の義を求めなさい。」これが私の立場です。」と書きました。するとある方から「まず神の国と神の義を求める」とはどのような祈りをしたらよいのか?と真摯な質問を受けました。確かにそうです。皆さんはどう考えますか? 私は、その軸として、キリストとその御心を求めること、大事なのは「神の国の民」として求めること、とお答えしました。なぜなら 「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民(*同じ市民)であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19) とあるからです。「立ち位置」によって見える風景は変わります。考えてみて下さい、「日本人」としてキリストとその御心を求めるのと、「神の国の民」としてそれを求めるのでは、何が違ってくるでしょう? ちょっと専門的な話になりますが、私たちの教団は「イスラエルの救い」を祈ってきました。その祈りは尊いです。しかしその歴史は悔い改めの歩みでもありました。その祈りを強調するあまり教会形成が損なわれ、イスラエル主義に陥り、裁きと分裂をもたらしました。よく「Jew first(ユダヤ人第一)」と聞きましたが、なんか、昨今の「America first」と重なってしまいます。「イスラエル」は聖書の基軸であり、私もローマ11章に基づいてイスラエル(ユダヤ人)の救いを祈ります。イスラエル(ユダヤ人宣教)に召されている団体の働きは尊いです。しかし聖書のビジョンは、「こうしてキリストは、この二つ(ユダヤ人と異邦人)をご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、~」(エペソ2:15)と、イスラエルの救いではなく、キリストにある「新しい一人の人」です。私は「新しい人(神の国の民)」として、東京から神の国と神の義を求め続けたいと思います。

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2022年3月13日

ロシアのウクライナ軍事侵攻の報道に胸が痛みます。解決の道を塞ぐ「核」の現実に憤りを覚えます。私はそのような祈りの中でデボーションをしました。聖書箇所は使徒12:6-17、迫害によってペテロが投獄された場面でした。ペテロは二本の鎖につながれ、二人の兵士の間で眠っています。すると主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らし、御使いはペテロの脇腹を突いて起こしました。御使いは「急いで立ち上がりなさい」「帯を締めて、履き物をはきなさい」「上着を着て、私について来なさい」と言い、ペテロは従います。すると第一、第二の衛所を通り抜け、町に通じる鉄の門も開いて彼らは外に出ました。御使いはペテロから離れました。「そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、本当のことが分かった。主が御使いを遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民のすべてのもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」(11) ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家に行き、門の戸をたたきます。そこには多くの人々が集まり祈っていました。ロデという名の召使が応対に出ると、なんと、ペテロの声がするではありませんか! 彼女は皆のもとに駆け込んで告げますが、だれも信じません。「だが、ペテロは門をたたき続けていた。彼らが開けると、そこにペテロがいたので非常に驚いた。」(16) 私はこの箇所から、今、同じ主が、ウクライナの教会にも臨んでおられると心に響きました。主がいつも先に働かれます。救いのない夜に横たわるウクライナのペテロを、主の光が照らします。みことばに耳を傾けなさいと、御使いは具体的に脇腹を突きます。みことばに従っても意味がわからず先が見えません。けれども、「今、本当のことが分かった。」という時が来るのです。教会は、「そこにペテロがいたので非常に驚いた。」という驚きを経験するのです。ウクライナのペテロと教会に、ロシアのペテロと教会に、日本のペテロと教会に、主は、臨んでおられます。

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2022年3月6日

ロシアによるウクライナ侵攻に私たちは注目しています。今、その渦中にあるウクライナの教会とロシアの教会は何を祈り、どのように歩んでいるのでしょう。ウクライナの教会の様子は教会ネットワークを通じて届いていますが、ロシアの教会については今のところありません。ロシアの教会の様子が気になります。クリスチャンにも多様な祈りと行動があります。もし私がこの渦中にいたならどうするだろうか? あなたならどうしますか? 私の内に響くみことばがあります。 「まず神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6:33)。 このみことばはアメリカ大統領選の騒動の時も私の内に響きました。今、ロシアへの抗議が世界中で巻き起こっています。SNS上にウクライナ国旗のアイコンがはためいています。確かにロシア(プーチン大統領)による軍事侵攻は許されることではありません。しかし欧米を中心に大量の最新兵器がウクライナに送られる動きに、理解をしますが不安も覚えます。将来これらの武器は、これらの武器により、どうなるのだろうか。ウクライナ政府もこの機運に乗じてか、世界に義勇兵を募っています。気持ちは分かりますが不気味さも覚えます。私たちは、特にこのような事態において、どちら側につくのか、どの政党につくのか、だれにつくのか、その誘惑と衝動に駆られます。しかし「まず神の国と神の義を求めなさい。」これが私の立場です。私たち教会には、ウクライナの兄弟姉妹がいます。ロシアの兄弟姉妹がいます。私たちの国籍はどこでしょうか。私たちは 「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」(マタイ6:10) と共に祈ります。 「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」 事は複雑です。しかし私たちは、キリストを求め、キリストを受けて、立ち上がり、発し、行動します。そこに、不思議な御霊による一致、神の摂理を信じます。

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