月別アーカイブ: 12月 2021

2021年12月26日

詩篇77篇は、弱り果てた筆者の神への叫びです。「私は神に声をあげて、叫ぶ。~ 神を思い起こして、私は嘆き悲しむ。思いを潜めて、私の霊は衰え果てる。あなたは、私のまぶたを閉じさせません。私の心は乱れ、ものを言うこともできません。~ 主の恵みは、とこしえに尽き果てたのか。神は、いつくしみを忘れられたのか。怒って、あわれみを閉ざされたのか。」(1-9)。悲痛な祈りです。しかし、10節のみことばを契機に筆者の祈りは変わります。「私はこう言った。「私が弱り果てたのは、いと高き方の右の手が変わったからだ」と」(10)。このみことば以前の焦点は「私」でした。しかしこれ以降の焦点は「神」です。私が弱り果てたのは、いと高き方の右の手が変わったから。つまり、私が弱り果てたのも「神の主権」にある。私は神を見つめる、主はどのようなお方か?「私は、主のみわざを思い起こします。~ 私は、あなたのなさったすべてのことを思い巡らし、あなたのみわざを、静に考えます。神よ、あなたの道は聖です。~ あなたは奇しいみわざを行われる神。国々の民の中で御力を現される方。あなたは御腕をもって贖われました。ご自分の民、ヤコブとヨセフの子らを。~ あなたの雷の声は、戦車のように鳴り、稲妻は世界を照らし、地は震え揺れ動きました。あなたの道は、海の中。その通り道は大水の中。あなたの足跡を見た者はいませんでした。あなたは、モーセとアロンの手によってご自分の民を、羊の群れのように導かれました。」(11-20)。 2021年が閉じます。私たちも77篇の筆者のように、「私」から「神」へ焦点を切り替えたいと思います。私たちの神は、イスラエルの民を出エジプトさせ、海を分け、その間を導かれた主です。2021年の主のみわざを静に考えましょう。主はどのようなお方であるのかを確認し、御名をたたえましょう。 「-主のことば- 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8,9)。

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2021年12月19日

「神が、さばきのために、地のすべての貧しい者たちを救うために、立ち上がられたそのときに。」(詩篇76:9)。 このみことばの「貧しい」について調べました。そしてその意味が心に響きました。貧しいとは、「無慈悲な者に対して仕返しができない」という意味です。貧しいから、弱いから、抵抗したくても抵抗できないのです。しかしもう一つの意味もありました。それは「仕返しをしようとしない」ということです。仕返しができるのだけど、敢えて、仕返しをしない、貧しさに留まる。とても謙虚で、辛抱強い人です。なぜ仕返しをしないのか? それは「神が、貧しい者たちを救うために、立ち上がられる」からです。貧しい者とは、抵抗しないで神を待ち望む者です。 前回ここに新潟グレースネットチャペル(NGNC)のクリスマス会のことを書きましたが、12月12日(日)、喜び溢れるクリスマス会(礼拝とコンサート)となりました。神さまがNGNCに新しいことを始めておられることをみなが実感するひと時でした。これまでのクリスマス会と違うのです! 何よりも、一人ひとりがこのクリスマス会に初めての方をお誘いして、会社の同僚、中学時代からの親友、長年祈り続けている未信者のご主人、等々、祈りお誘いしたほとんどの方が参加してくださり、皆さん喜び感動されて、霊に渇いている方もおられ、今後、家庭集会をしてゆきたいとの話も挙がりました。これまでは、前進したくても前進できない中にありました。あるご夫妻は、長くて大きな試練の中を通られました。その中でエレミヤ24:5,6,7のみことばを受け取り、毎日、何かある毎に、そのみことばを宣言して祈り続けて来られました。そして、試練から脱出できる兆しが見えてきました。今、NGNCは、様々なことが合わさって、新しい芽生えが見えています。神の御業としか言いようがありません。貧しい者の群れ、神を待ち望む教会です。とても励まされています。季節は真冬に向かいますが、教会は春の訪れです。

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2021年12月12日

この土日(12/11,12)、私は新潟グレースチャペル(以下、NGNC)の奉仕に行ってきます。12日はクリスマス礼拝です。一部は礼拝、二部はミニコンサート、教会が毎月行っている「歌の会」の講師である神田幸子先生が歌って下さいます。奇遇にも神田先生は武蔵野音楽大学出身でした。クリスチャンの方ではありませんが、素晴らしい指導をして下さっています。NGNCには専任の牧師がいません。私は小笠原先生のバトンを受け継いで二カ月に一度のペースで奉仕に行かせていただき、他の月はグレースネットの先生方が順番に行って下さいます。月に一度牧師がご用をし、他の週は信徒の皆さんで礼拝をささげているのです。 さて、去る10月、私は約一年振りに新潟に行きました。土曜日は「お世話係会」と称する教会運営ミーティングで、私たちはコロナ禍での苦労や恵みを分かち合い、今後の教会の歩みについて話し始めました。すると一人の方が声を大にして言いました。なぜもっと真剣にこれからの教会のことを話し合わないのですか!弱い人たちに届いていくのが教会ではないですか! すごい剣幕です。しかし周りの皆さんは静かに受けとめて共感します。そして心を開いて話始めました。夫々が大変な苦労の中を通って来られました。ある方は大きな問題の対応に追われて精一杯でした。ある方は奥様が病に倒れて絶望の底を通られました。そして穏やかに言われました。弱い人って誰だろうか、だれもがみな弱いのではないかな。その他の皆さんも夫々の証がありました。叫んだ方も静かに耳を傾けています。そして感情的になったことを謝り、受けとめてくれたことに感謝されました。その方も家族のケアの中で大きなストレスを覚えておられたのです。各々が人生の試練を通っています。しかしその中で主を見つめ続け、そしてそれが、この交わりを生みました。人に反応するのではなく主に反応する交わりを。私はそこにNGNCの宝を見ました。コロナが落ち着き、依然コロナの中で、賛美あふれるクリスマス礼拝です。

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2021年12月5日

ヨハネの黙示録20章は、「彼ら(聖徒)は神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。」(6)と「千年王国」が述べられます。突然、しかもここだけに登場する「千年王国」とは何なのか?いつのことなのか?三つの理解に分かれます。 ①「千年期前再臨説」(千年王国の前にキリスト再臨)。 ②千年期後再臨説(千年王国の後にキリスト再臨)。 ③無千年王国説(千年を象徴的な長さと捉え、キリストの来臨(降誕)から再臨までを千年王国の祝福とみる、まさに今が千年王国)。 断定が適わないのが黙示録の深淵であり魅力です。私たちは全知全能でないと謙虚にさせられます。この啓示を直接受けたヨハネは千年王国をどう見たのでしょう。キリストの弟子であるがゆえに捕えられパトモス島に幽閉、他の弟子たちは次々に殉教、大患難の中でヨハネの信仰は揺さぶられたことでしょう。しかし千年王国の啓示を受けました。ヨハネの光と力になったことは間違いありません。「彼(天から下って来た御使い)は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕らえて、これを千年の間縛り」(2)。この大患難や迫害者たちは、まさに得体の知れぬ「竜」、しかしそれは「古い蛇」なのです。過去のもの、最新鋭でなく火縄銃、すでにキリストはそのかかとで蛇の頭を打ち砕かれました(十字架)。 ヨハネは殉教していく聖徒たちを目の当たりにしました。しかし「また私は、イエスの証と神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らはその獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。」(4)。彼らは犬死ではなかった。いや、私もキリストにあって生き返った者、御国を受け継ぐ者として聖霊によって証印を押された者(エペソ1:13,14)。患難の中にあって神の啓示(みことば)を受けることのできる幸いを覚えます。千年王国は今であり、やがてである。私たちはキリストとともにその王国を治めるのです。

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