月別アーカイブ: 11月 2021

2021年11月28日

サウルの最後(Ⅰサムエル31:1-7、Ⅱサムエル5:1-5)をとおして「いのち」について教えられました。ペリシテとイスラエルの戦い。ヨナタンはじめサウルの三人の息子は最後まで戦い死にました。攻撃の手はサウルに集中、致命傷を負ったサウルは道具持ちに言います。「私を殺してくれ。さもないと、あの無割礼の者たちがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶりものにするだろう。」。しかし道具持ちは恐れて手を下せません。サウルは自害しました。それを見た道具持ちも自害しました。それらの知らせを受けたイスラエルの兵士たちは逃げ出しました。イスラエルの人々も町々を捨てて逃げました。その後、イスラエルの全部族はダビデのもとに来て言います。「ご覧ください。私たちはあなたの骨肉です。~主はあなたに言われました。『あなたがわたしの民イスラエルの牧し、あなたがイスラエルの君主となる』と。」。見事なひるがえりです。ここに、それぞれのいのちの有り様を見ます。ヨナタンはじめサウルの三人の息子は、イスラエルの戦士、王の息子としていのちをかけました。一方サウルは、やはり、いのちより大切なのはプライドでした。侍と同じです。自己破産するより自殺を選ぶ日本の社会人のことも脳裏に浮かびます。サウルの道具持ちは、完全にサウルのマインドコントロールの配下、盲信、盲従です。そしてその他のイスラエルの兵士や住人たちは、責任の薄い立場であり当然命乞いをしました。ではダビデはどうだったでしょう? イスラエルの全部族は「あなたがイスラエルの君主となる」と称え、その通りにダビデはサウルの次の王となりました。しかしダビデは告白します。 「主は私の羊飼い。私は乏しい事がありません。」(詩篇23:1)。 ダビデは主にいのちを委ねました。ときに信仰も、自分の信念やプライド、人への盲信にすり替わります。しかし私たちは「いのちをかける」のでも「命乞いをする」のでもなく、「主は私の羊飼い」と告白できる恵みが与えられているのです。

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2021年11月21日

Ⅰサムエル記24章はクリスチャンならよく知る場面です。ダビデの命を狙うサウル。サウルはエン・ゲディの洞穴に用をたすために入りました。その奥にはダビデと部下がいました。文字通り丸腰のサウル、返り討つ絶好のチャンス。ダビデには非がありませんでした。サウルがダビデの命を狙うのは、ただ妬みからの恨み。なので、何もしらずに用をたすサウルを前にして家来は言います。 「今日こそ、主があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われた、その日です。」(24:4)。 しかしダビデはサウルの上着の裾を切り取るに留め、家来に言いました。 「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから。」(6)。 えてして私たちは自分の側から物事を見ます。みことばも自分側から解釈します。理不尽な逃亡生活を伴った家来のみことばによる進言は、ダビデの背中を押したでしょう。しかしダビデは自分側でなく相手側、そして神の視点に立って洞察する「切り替え」ができました。主なる神はサウルにどのように臨んでおられるのか、主がサウルに油を注がれた、主が責任を取られる。 先日、NPO法人ホサナの理事会がありました。その後私は自己嫌悪に苛まれました。その日の理事会は大事な議案があり、長時間の協議の末に私は賛成に挙手しました。しかしその判断に苛まれたのです。なんて周りに流されやすく意思の弱い自分なのだろう。やがて落ち着きを取り戻し、私は自分から離れ、俯瞰してその時の理事会を見つめました。すると見えてくるのです。賛成も反対もどちらも正解ではなかった、そのただ中に主がおられる。今回の決定は、理事会が一致してホサナの働きを建て上げていくための良き機会となりうる。私は主に委ね、ただ主の御前に真実であることに心が定められました。私たちはサウルを前にして何を見ていくのか? 大事な機会です。

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2021年11月14日

練馬教会員であり私の恩師である西岡力先生から、新著『わが体験的コリア論』をいただきました。早速読み始め、序文を読んだ時点でとても感銘を受けました。西岡先生了承のもと一部抜粋してご紹介します。「コリア(韓国と北朝鮮)について研究し始めて約50年になる。その中で、いつも、研究と道徳、あるいは価値観は切り離せないと思ってきた。私にとって道徳とは何か。コリア研究をしながら体験的につかんだのは、道徳とは命よりも大切なもの、あるいは命をかけても実現すべきこと、だということである。今から20年ほど前、いじめなどを理由にした中学生の自殺事件が多発していたとき、テレビで識者と言われる人々が次々出て、自殺をするなと呼びかけていた。異口同音で命は大切だ、命を粗末にするな、命を捨てるくらいなら全てを捨てて逃げなさい、などと語っていた。命が一番大切だという主張だ。それを見ながら私は、命より大切なものがこの世にあるはずだ。大人の役割は若い世代に命をかけてなすべき価値がこの世界にあるということを教えることではないかと、思っていた。 新約聖書に次のような言葉がある。 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ書2章10節) 私たちがこの地上で命を与えられたのは、その命をかけてなすべきことがあるからだ。命はそのために使うものだ。命より大切なものがある、それが私にとっての道徳だ。これが50年近くコリア研究をしてきた私の体験からくる結論だ。そのことを皆さんと共有したくてこのつたない書物をまとめた。」 私は目の前の仕事に追われ、その意義と価値を見失う時があります。命乞いをする人生か?命をかける人生か? 命をかけるとは困難にも挑むこと。それほどの価値あるもの。あらためて私の仕事と人生を見つめました。命より大切なものがある。命はそのために使うもの。

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2021年11月7日

余談ですが、私は暗算が苦手です。正直、今でも指を使ってしまいます。若い頃に色々アルバイトをしましたが、レジのバイトだけは避けて来ました。例えレジや電卓があったとしても、急に暗算をしなければならないことがあるかもしれないし。なので、八百屋さんとか暗算メインの仕事なんてもってのほかです。先日、息子も宿題の足し算を両手の指を使いながら一生懸命やっていました。とっさに私は、え、これはまずい、私の二の舞になってしまう!と思ってしまいました。妻にそのことを話すと、妻もネットで調べたらしく、先ずは計算をする意欲を持つことが大事だから、指を使うのを止めない方が良いとのこと。なので、そっとしておきました。 しばらくして息子は再び足し算をしていたのですが、なんと、もう指を使っていません。暗算でスラスラ解いています。びっくりしました。私は声を弾ませ、暗算できるようになったんだ!と息子の頭をワシワシとしました。学校で「さくらんぼ計算」を習ったとのこと。さくらんぼ計算!? 皆さん知っていますか? 私は知りませんでした。なので、息子に教えてもらいました。例えば8+6。先ずは8にあといくつで10になるかといえば2です。6の下に2と書きます。そして6から2を引くと4なので、先ほどの2の右に4と書きます。6の下に2,4のさくらんぼができました。最後は右の4に10を足すと答えが14です。はじめはこのように書いて計算しますが、息子はもう慣れて暗算です。いや~、さくらんぼ計算という方法があるなんて!私もこれで、49歳になって遂に、指を使っての計算から卒業できます。思えば、はじめに息子は数字の上に豆粒を書いて計算していました。次は指を使い、そしてさくらんぼ計算です。担任の先生は、子どもたちの意欲を引き出しながら暗算を教えてくれていたのです。先生に感謝です。しかし私が一年生のときの先生も同じだったと思うのですが、なぜに私は…。

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