月別アーカイブ: 3月 2021

2021年3月28日

今週は受難週です。私たちはイースターの希望を見つめながら、この受難週を歩んで行きたいと思います。イエスの受難の極みは十字架の前夜、ゲッセマネの祈りです(マタイ26:36-46)。この「苦祷」がイエスを十字架の確信に歩ませました。イエスは死ぬほどの悲しみに悶えながら祈られます。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」 しかし父は沈黙されます。そしてイエスが目にしたのは、眠っている弟子たちでした。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」イエスは再び父のもとで祈ります。「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみここころがなりますように。」 弟子たちはまた眠っていました。「まぶたが重くなっていたのである。」 イエスは眠っている弟子たちを見つめ、再び父のもとで三度目の祈りをされます。その苦祷を、沈黙のうちに、まどろむことなく聴かれる父、一方、肉の弱さの中で眠りこける弟子たち、このコントラストの間に立たれる御子イエス。ここに、王であり祭司である主イエス・キリストがおられます。苦祷するイエスへの父のみこころは、眠りこけている弟子たちでした。その弟子たちをご覧になられたイエスの祈りは、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」から「わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、」と変わり、三度目の祈りを終えたイエスは「立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」と弟子たちを起こし、十字架の贖いに向かわれます。眠りこける私の背後で、まどろむことなく私の贖いを全うしてくださった父と子なる神。そして復活の朝、私は聖霊によって、一時間でも師とともに目を覚まして祈る者へと救われるのです。

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2021年3月21日

息子の保育園の卒園式がありました。オンラインで行われ、卒園証書授与の時だけ親が保育園に行くという流れでした。コロナ感染防止を徹底しながら最良の卒園式を企画、運営していくには、並々ならぬご苦労があったと思います。園長先生、担任の先生はじめ全職員の皆さんは一丸となり、とても温かな卒園式をしてくださいました。感謝の思いで一杯です。 振り返ると、息子は1歳半から保育園に通いました。正直、こんなに小さい時から入れなければならないのかと心痛みましたが、その思いは直ぐに晴れました。同じ境遇の親御さんたちの存在は励みでした。何よりも保育園の良さを味わいました。保育園は朝から夕方、時には晩まで共同生活です。なので、生活全般の社会性が自ずと身についてきます。先生も上手にその躾をしてくれます。例えば、息子と一緒に道路を歩いていたら、息子の方から私の手を握ってきて、走り出さず、驚いたことがあります。そう、みんなで公園に行くときに学んだのです。 私が特に良いと思う保育園の魅力があります。それは保育園の行事が程よい数、親同士の関係が程よい距離だということです。皆働いていますから。この程よいサッパリ感がとても良かったです。もちろん、1歳(0歳)から保育園に行っても何も問題ないことも学びました。さて、卒園式での卒園生たちの合唱がとても良かったです。 1.友だちはいいもんだ 目と目でものが言えるんだ 困ったときは 力をかそう 遠慮はいらない いつでも どこでも 君を見てるよ 愛を心に きみと歩こう ※みんなは一人のために 一人はみんなのために みんなは一人のために 一人のために 2.友だちはいいもんだ 言いたいことが言えるんだ 悲しいときは 励ましあおう 心はひとつさ 大人になっても 忘れはしない 夢をだいじに きみと進もう ※くりかえし 息子ら卒園生たちが肩を寄せ合い「友だちはいいもんだ~♪」と歌っている姿に、5年間のかけがえのない保育園の歩みに感謝でいっぱいになりました。

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2021年3月14日

最近のディボーション、マタイ12章の「安息日問答」から教えられたことを記します。安息日のある日、イエスと弟子たち一行は麦畑を通り、空腹だった弟子たちは穂を摘んで食べ始めました。するとパリサイ人たちは、「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」とイエスに訴えます。するとイエスは「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分の供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。」答えました。この問答でハッキリわかるのは、パリサイ人たちの内側は裁き心満載だということです。安息日なのに…。彼らはイエスのことが面白くありません。出来ていることではなくて、出来ていないことに目が留まります。なぜ彼らはこんなにイラついていたのでしょう? それは、彼らこそ安息していなかったからです。パリサイ人たちは律法に厳格でした。そのように教育を受けたし、そこで安心を得ていたし、そのために努力と犠牲を払ってきました。なので、律法を守っていない人を見ると裁くのです。これは他人事ではありません。 一方、イエスと弟子たちは穏やかで自由です。イエスは空腹だった弟子たちに「食べなさい」と言われ、弟子たちは安心して食べ、安息しました。これが安息日です。私たちは日曜日に礼拝しますが、そのただ中で裁き心満載というときはありませんか? ダビデは神の家に入りました。私たちも仕事から離れて「神の家」に入ります。そして私たちも「臨在のパン」を食べます。そのパンは祭司が食べるパンでした。つまり、「いのちのパン」であり「召しのパン」です。パンを食べ、安息し、新たに歩み出します。皆さんは安息していますか? 仕事やスマホから離れ、ゆっくりパンを食べるひと時は幸いですね。分かち合いながら。白飯もいいですが。安息は、自分と他人への裁き心から解放します。

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2021年3月7日

リルケという詩人の『若き詩人への手紙』という小さな本があります。詩人を目指す一人の青年に宛てた書簡集なのですが、その青年は自分の詩をリルケに送り、自分は詩人になるべきかどうか意見を求めました。それに対するリルケの返答です。ゆっくりお読みください。「自らの内にお入りなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深いところに根を張っているかどうかを調べてごらんなさい。もしあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。何よりもまず、あなたの夜の最も静かな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい、私は書かなければならないかと。深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。~ だから私があなたにお勧めできることはこれだけです、自らの内へお入りなさい。そしてあなたの生命が湧き出てくるところの深い底をおさぐりなさい。その源泉にのみあなたは、あなたが創作せずにいられないかどうかの答えを見出されるでしょう。」 心に響きます。私も、私は本当に牧師なのだろうか?とじっくり問うたときがありました。自らの内に入っていく、掘り下げていく、そして深い底の源泉からわき出るいのちに行き着いていく。もしあなたが「それ」を止められたら、あなたは死ななければならないかどうか。あなたにとって「それ」とは何か? ときに、集中して内へ内へと掘り下げていくことも必要です。そのためには静寂な時と場所も必要です。あなたの夜の最も静かな時刻はいつですか? 私にとっては朝4時のリビングです。そのためには晩の9時には床に就くのが理想です。たまには森の中にも行きたいです。沈黙し、心の奥をさぐり、主の語りかけに静かに耳を澄ましていく、やがて源泉に行き着きます。助け主、聖霊が導いて下さいます。そこには主イエスがおられます。

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