月別アーカイブ: 2月 2021

2021年2月28日

「沈黙」について思い巡らしたいと思います。皆さんはどんな時に「沈黙」しますか? 息子がアニメを観ている姿を見てふと気づいたのですが、めちゃくちゃ沈黙しています。私もTVやスマホを観ているときは沈黙です。そうなんです。集中しているときは沈黙なんです。特に、聴いていこう、受け取っていこうとするときは、目を凝らし、耳を澄まし、体を乗り出し、力を全開にして沈黙します。もちろん、ボーとしていたり、自分に囚われていたり、ただ口を閉じているだけの沈黙もあります。 皆さんは、どんなときに最も沈黙していますか? 私にとってのそれは、礼拝メッセージを準備しているときです。その中でも幾つかのステージがあります。まだ時間的余裕があって気もそぞろの沈黙、そろそろ集中しないとヤバいと焦り始めた沈黙、みことばが開かれず戦いの中の沈黙、そして、みことばが開かれてきてノッてきた時の沈黙です。この時がメッセージ準備の至福の時なのですが。聖書には何度も「目を覚ましていなさい。」とあります。沈黙とは、本当の意味で「目を覚ましている」時です。全集中。言うならば、私たちにとって最もエネルギーのいる行為が「沈黙」です。主イエスは 「しかし、必要なことは一つだけです。」(ルカ10:42) と言われました。マリヤは、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていました。すべては、ここから始まるのです。この一点に集中すれば良いのです。「聴く(見る)」ということが、人生に決定的な影響を与えて来たということを私たちは皆知っています。ここに創造的に生きる道が隠れている、ここから聖書が始まっていく体験です。マルタはいろいろなことを思い煩って、心を乱していました。しかし、必要なことは一つだけです。ここに私たちが改めてシフトしていく招きがあるのではないでしょうか。マリヤの沈黙。イエスという的を外さない生き方。皆さん、沈黙しましょう。あなたの夜の最も静かな時刻に、沈黙しましょう。

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2021年2月21日

『鬼滅の刃』をご存知ですね。今、巷で話題のアニメ(漫画)です。私は全く興味がなかったのですが、親御さんたちもハマっているとの噂を耳にし、息子の隣で数回観てみました。しかし、ハマれませんでした。すると妻は「鬼滅の刃」を洞察するあるライターのコラムを紹介してくれて、なるほど。それにはハマりました。「鬼滅の刃」を一言で言うと鬼退治(だそうです)。しかし重要なのは、鬼たちはかつて人であったということ。馬鹿にされ、孤独を抱え、虐げられ、人として生きていくことにさえままならない世界に絶望した末に、鬼になった。鬼には悲しい過去があるのです。しかしこの物語で鬼は、徹底して「滅ぼすべきもの」として位置づけられています。なぜなら「自分はこんなに辛い思いをした」「世界はこんなに酷い場所なんだ」、そんな絶望やニヒリズムに絡めとられて、まっすぐに生きていこうとする人間をぐちゃぐちゃに破壊するから。鬼は人を喰らうのです。 また鬼は実力のある人を見つけると、「お前も鬼にならないか」と誘います。「強くなって勝ち組になろうぜ」と。傷ついたり失ったりしたくないなら変化に適応しろ、生産性を上げろ、他人はどうでもいいから、自分のスペックを上げることに集中しろ。鬼になれ! とすると、私は思いました。鬼はいる。私の内に、この社会の内側に。物語の中で鬼を倒す組織を「鬼殺隊」と言います。主人公の少年、竈門炭次郎は、鬼に大切な家族を惨殺され、ただ一人生き残った妹の禰津子も鬼にされてしまう。炭次郎は妹を人間に戻すため、鬼を倒す組織「鬼殺隊」へ入隊し、仲間といくつもの死闘を乗り越えていきます。彼らは「人として存在」することに戦い続けます。「良きサマリヤ人」(ルカ10章)のたとえ話を思い出しました。強盗に襲われ半殺しにされた男を、見て見ぬ振りして通り過ぎる祭司、レビ人の鬼。また差別の世界でニヒルな鬼になってもおかしくないサマリヤ人の旅人、しかし彼は「人」であり続けました。『鬼滅の刃』大ヒットの理由を垣間見ました

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2021年2月14日

Ⅰサムエル記8章には、身につまされる「王」のジレンマが露呈しています。イスラエルの弱体化を憂いだ長老たちはサムエルに王を求めます。イスラエルに力強い確かなリーダーが必要だと。サムエルは主なる神が告げる「王政の弱点」を語ります。王は自分の支配権を確立させるために王権を行使し、あなたがたは自分たちのために選んだ王のゆえに泣き叫ぶと。しかし、民は王を求めてをやみません。これは私たちも同じです。やはり日本には総理大臣が必要だし、アメリカには大統領が必要です。私たちには力強い確かなリーダーが必要だと。そして立候補者は公約を掲げ、私たちは演説や討論に耳を傾けます。しかしその反面、どうせ期待通りにはいかないとも悟っています。新しい総理大臣が就任するとただちに野党やメディア、そして私たちは批判を始めます。もちろんしっかり監視しなければなりません。ロッキード事件や森友・加計問題もありましたから。これが「王」のジレンマです。本来、イスラエルの王は主なる神であり、神聖政治でした。しかしそれはかないませんでした。日本も神聖政治はかないません。いや、教会ですら、かないません。 「【主】はサムエルに言われた。「彼らの言うことを聞き、彼らのために王を立てよ。」」(22) この道しかないのです。私たちに神聖政治はかないません。実際の王が必要です。ただ、どんな王でも欠けがあり、だれもが王の立場になるとその権利を乱用する弱さを持っています。しかし、この先に光がありました。キリストはこの世にあって神の国の王として歩まれました。王として十字架でご自身のいのちをささげ、私たちの罪を贖って下さいました。キリストは神の国の民としての生き方を私たちに示します。主は、キリストを、私たちの王として立てて下さいました。私たちは内閣総理大臣はじめ立てられた権威に従います。しかし、イエスを主と告白します。そして神の国の民として歩みます。私は「王」のジレンマから解放されました。

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2021年2月7日

第46代アメリカ大統領にジョー・バイデン氏が就任ました。今回のアメリカ大統領選挙は最後まで何が起こるか分からない波乱の展開で、メディアも話題沸騰でした。興味深かったのは、また時代を感じたのは、様々な人が、牧師たちも、この選挙に対する自身の見解をYouTubeなどにアップしていたことです。私が参加している某キリスト教団体のSNS内でも、一部の牧師たちが様々な情報に基づく自身の見解を熱く述べ、遂には「○○氏が当選するように祈ろう!」と、ちょっと気が気でない様子になってきて、私は注意深く傍観していました。 で、一つのことを考えました。そもそも選挙に対して私は、どのような姿勢で取り組むべきだろうか? 牧師が講壇から「○○氏が当選するように祈ろう」などと言うべきではないと思っています。同時に、私も一人の候補者や政党に一票を投じるし、クリスチャンがどこかの政党を支持し所属するのも悪いことではないと思っています。ただ「この候補者、この政党は神の御心だ。」と言い切るのは暴言です。そんな折、アメリカの日本人教会で牧師をされている私の神学校の先輩が、クリスチャン新聞2/7日号に寄稿した「米大統領選 就任式で見えた政治的分断 立場違えど共に」の文章が心に留まりました。そこには今回の選挙に対する、アメリカの複数の福音派の指導者たちの姿勢が紹介されていたのですが、彼らは、キリスト教会が、国家や特定の政治的立場ではなく、聖書的な「神の国」の価値観を反映させた共同体にならなくてはいけないと訴えているとのことでした。とても腑に落ちました。 私は、民主党でも共和党でもなく「御国が来ますように」(マタイ6:10)と祈る者です。政治家も政党も、それを見定める私も欠けがあることを忘れてはなりません。なので、謙虚に熱心に、「先ず神の国とその義を求めなさい。」(マタイ6:33)。そして次に、日本国民、東京都民として、清き一票を投じます。時が良くても悪くても、みことばを宣べ伝えます。

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