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月別アーカイブ: 1月 2021
2021年1月31日
昨年の夏の初め、ある方が息子にカブト虫のつがいをプレゼントしてくれました。早速、Amazonで飼育ケースと育成マット(腐葉土)とゼリー(餌)を購入し、近くの公園で木っ端を拾ってきて、我が家のカブトムシ物語が始まりました。一緒にいると性格がわかるものです。メスの方がやんちゃです。しかし、9月の終わり頃にメスが先に死にました。息子と公園の端に埋葬しました。オスはその後も1ヵ月ほど生きましたが、最後は足の先が関節から次々に欠けてゆき、じっと静かに死んでゆきました。メスの隣に埋葬しました。 しかし私たちには希望もありました。新聞紙を敷いてマットを広げてみると、卵が25個もありました。数日経つと、ちんまり丸まっ幼虫が足をみょごみょご動かしています。あのカブト虫のつがいからこんなに繊細で感動的な変化が起こるなんて、手品とは比べものにならない不思議です。幼虫はマット(腐葉土)を食べながら成長します。私たちは大きいケースをもう1つ、小さいケースを2つ、さらにマット数袋を購入し、25匹の幼虫がストレスなく成長できるように環境を整えました。息子は毎週月曜日に霧吹きでマットに水分を補充し、時々一緒にマットを入れ替えます。みんな、ぷりっともっちり大きくなりました。息子はカブト虫を飼っている間は旅行に行かないと言っています。やがてさなぎ、夏には成虫です。成虫になったらメルカリで売るかい?と息子に言ったら、一つがいだけ残してあとは欲しい人にあげるそうです。 さて、妻が「昨年のNGCはさなぎのようだった。」と言っていました。さなぎの中は液体状だそうで、NGCも外からはあまり動いているようには見えないけど、中では色々変化が起きていて、次のステップの準備期間だったと。なるほど。もう少しコロナは続きますが、それは神さまが用意された「さなぎ期間」と見たら希望がありますね。私たちは、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます(Ⅱコリント3:18)。
2021年1月24日
聖書には昔も今も変わらないことが書かれています。士師記20章、イスラエルに内紛が起きました。ベニヤミン族のよこしまな男たちが、旅の途中のレビ人のそばめを暴行し殺害します。するとそのレビ人は、そばめの死体を切り分けてイスラエルの全相続地に送り、それを受けったイスラエルの全部族は激怒、報復のため一斉に立ち上がりました。一方ベニヤミン族も、犯人を差し出すどころか彼らも精鋭たちを招集し、イスラエルに対抗すべく立ち上がります。イスラエルの民は「私たちは、だれも自分の天幕に帰らない。だれも自分の家に戻らない。」と報復に激情します。少し前に、ドラマ『半沢直樹』が高視聴率を叩き出し、「やられたらやり返す、倍返しだ!」が流行りました。報復、特に悪い奴への報復は爽快感を覚えます。女性を暴行して殺害するなど言語道断です。しかしこの報復の発端は何でしょう。それはレビ人がそばめの死体を切り分けて、イスラエルの全相続地に送ったことです。彼は目を覆いたくなるようなことをしましたが、だからこそ全イスラエルは報復に激情しました。つまりレビ人はそうなるよう仕組んだのです。印象操作です。 聖書には昔も今も変わらないことが書かれています。現在、様々なメディアが様々な情報を発信していますが、もしかしたら、私たちも知らないうちに印象操作に操られているかもしれません。よく言われるのが演説やインタビューなどの発言の「切り取り」報道です。また「いいね!」のためにはセンセーショナルな記事にせざるを得ない現状もあるでしょう。しかし、印象操作が報復を起こし、血と血で争う内紛にまで発展し得るということを私たちは忘れてなりません。士師記20章、一度火がついた報復のうねりを止めることはできませんでした。ただ、「報復に加わらずひざまずき祈る」という選択肢もありました。ゲッセマネの園の主イエスのように。報復のうねりの中の勇気ある選択です。
2021年1月17日
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ3:2) バプテスマのヨハネは荒野で叫んでキリストの到来の道備えをしました。神殿の広場やエルサレムの交差点ではなく、彼は荒野で叫びました。確かに、荒野は神と真剣に向き合う場です。しかしふと思います。はたしてバプテスマのヨハネの働きは成功だったのかと。彼の叫びを聞いて多くの人がヨルダン川で洗礼を受けました。しかしキリストが十字架に磔にされた時には誰一人いませんでした。ヨハネの道備えとは何だったのか…。しかし想像します。それから約30年後、ローマ軍の攻撃でエルサレムが陥落し神殿も崩壊した時、ヨハネのあの叫びを思い起こした人がいたのではと。 毎年年末になると池袋の交差点で、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と大きな看板を掲げて路傍伝道をしている人たちがいます。多くの人は無視をして通り過ぎるのですが、例えば、万引きした直後の人とか、刑務所を出所したばかりの人の心には迫ってくるのではないでしょうか。つまり、この叫びは、文字通り「荒野」にいる者にとって響いてくることばです。今私たちはコロナ禍の荒野にいます。バプテスマのヨハネの叫びに耳を傾ける時です。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」横向きや後向きになるのではなく、しっかりキリストに向きます。今や御国は到来しました。十字架と復活のキリストとその御言葉は、私たちの道、真理、いのちです。また、今こそ私たち教会は、バプテスマのヨハネに倣うときです。感染防止を徹底しつつ荒野で叫ぶのをやめてはいけません。 「荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ」(マタイ3:3) これは教会の声、教会の使命です。バプテスマのヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べました。荒野で叫ぶ者のライフスタイルです。今この時の荒野で叫ぶ私たちのライフスタイルとはどのようなものでしょう。
2021年1月10日
最近ある動画に衝撃を受けました。それはボストン・ダイナミクス社が公開した「Do You Love Me?」と題したロボットたちのダンスです。軽快な音楽に合わせて人型ロボットがノリノリにツイストを踊り出します。一緒に観ていた息子が「中に人が入っているんだよ。」と言うほどの動きで、あのバランスは私も負けます。すると四つ足の犬型ロボットが参加してきました。バレリーナがつま先立ちで脚を交互に細かく踏みながら移動するあれを四つ足でやっています。犬も完敗です。最後は愛嬌のある二足タイヤのダチョウ型ロボットも入って来て、皆で楽しそうに踊ります。もう圧巻でした。そして実感しました、ロボットに仕事をしてもらった方がずっと効率が良いという社会が目前まで来ていると。であるならば、人間にしか出来ない仕事は何なのか?と考えてしまいます。 「人生百年時代」の提唱者であるロンドン・ビジネススクールのリンダ・グラットン氏は、テクノロジーが発達した未来では、我々の仕事にはより「人間らしい力」が求められると述べています。ロボットやAIより人間が優れている点、それは共感力や想像力、理解力、交渉力であると。納得です。暗記力や計算力はロボットの分野です。 先週の礼拝後、ある方が体験談を話して下さいました。先日バスに乗っていた時、マスクをしていないご年配の男性が乗車してきたそうです。すると周りの数人の乗客が凄い剣幕で怒り出しました。その男性はうっかりマスクをし忘れたようで、謝りながらマスクを取り出そうとするのですが、その権幕に動揺してなかなか取り出せません。とても嫌な空気がバスの中に流れました。今やこれはどこででも起こりうる事態です。で、その事態はどのように解決に至ったのか、ある方が自分の予備のマスクをそっと差し出しました。ご年配の男性は何度もお礼を言いました。とっさに自分の予備のマスクを差し出す、これはロボットには出来ないことです。
2021年1月3日
明けましておめでとうございます。新年の朝をどのように迎えておられますか? 「私は身を横たえて眠り、また目を覚ます。【主】が私を支えてくださるから。」(詩篇3:5) そうです。主があなたを支えてくださるから、あなたは2021年の朝を迎えることができました。さて、「眠り」についての幸いな文章をご紹介します。「ヘブライ流の「夕べと朝」という表現は、私たちを恵みのリズムに慣らそうとするものである。私たちは眠る。そうすると、神がその働きを開始される。私たちが眠っている時、神はご自身の契約を遂行される。私たちは目覚める。そして今度は神の創造的な行為に参与するようにと招かれる。私たちは信仰によって神に応答し、働くことによって神に応答する。しかし、先行するのは常に神の恵みである。この恵みこそ第一のものである。私たちは、私たち自身が造り出したわけではない世界の中で目覚め、私たちが受けるに値しない救いの中で目覚めるのである。「夕べ」―神は、私たちの助けなしに、その創造的な一日を始められる。「朝」―神はご自身の始められた仕事をともに喜び、分かち合い、さらにおしすすめていくためのわざへと私たちを招かれる。創造と契約はまったくの恵みであって、私たちは朝ごとにその恵みに迎え入れられるのである。」(E.H.ピーターソン著『牧会者の神学』より) 創世記1章は私たちに繰り返し「夕があり、朝があった。」と伝えます。勘違いしないで、「朝から夕」ではないのだよ。「夕があり、朝があった。」2021年もこの恵みのリズムに歩みます。それは夜寝て朝起きるということです。良質な睡眠を取るということです。そのために一日を設計します。スマホやインターネットに気を付けましょう。ジョージ・マクドナルドという作家がこう述べています。「眠りとは、私たちが目覚めている時には受け入れることのできない援助を、人間に与えるための神の工夫なのである。」 今年も宜しくお願いします。