月別アーカイブ: 10月 2020

2020年11月1日

妻の大叔母さん(祖母の妹)の印象に残るエピソードをご紹介します。妻の祖母は主イエスを信じて天に召されたのですが、葬儀は仏式で、私と妻は葬儀の前に祖母に手を置いてお祈りしました。大叔母さんはその光景を観ていたようで、葬儀後「いいな~、姉のように私も死んだら牧師先生にお祈りしてもらいたいな~」と言いました。そこで私たち夫婦は大叔母さんに福音を伝え、大叔母さんは喜んで信仰告白をされました。やがて大叔母さんは近所の教会に通うようになり、家族の了承も得て洗礼を受けました。 ある日、私たちは大叔母さんを訪ね(旭川の老人ホーム)、皆で食事をしました。すると大叔母さんは私がお弁当の肉を食べているのをじっと見て、「良かった~、横田さんもお肉を食べるのね~」と言いました。クリスチャンは肉を食べてはいけないのかもしれないと思っていたそうで、そこには伏線がありました。ある日、大叔母さんの家族が葬儀で出た豪華な仕出し弁当を届けてくれました。大叔母さんはこのようなものは食べてはいけないのかもしれないと思い牧師に相談したところ、牧師は、偶像に捧げたものは処分した方がよいと言い、大叔母さんは弁当を処分しました。しばらくして、再び家族は葬儀で出た豪華な仕出し弁当を、今度は二つも届けてくれて、大叔母さんは念のため改めて牧師に相談しました。教会には新しい牧師が就任していたのですが、するとその牧師は、「処分するなんてもったいない、捨てるなら私が食べるので下さい」と言いました。結局二人で仲良く食べたそうです。なので、大叔母さんは私が肉を食べるかどうか観察したのでした。私たちはこの話を聞いて皆で大笑いしました。そして大叔母さんに私が確信するキリスト者の相応しい食物への姿勢を聖書からお伝えしました(Ⅰコリント8章、10章)。今、振り返って改めて教えられるのは、大叔母さんの、イエス様の御前に相応しい信仰者でありたいと願う、純粋な信仰の姿勢です。

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2020年10月25日

詩篇45篇は「王の婚礼」を描き、それは「キリストと教会」の関係を指し示しています。詩人は、花婿が威厳と威光に満ち、神から油注がれた方であるかということを卓越した文章で描きます。そしてその頂点が花嫁との婚礼です。つまりキリストと私たち教会の婚礼です。詩篇45篇を読んで、自分が「キリストの花嫁」であることをあまり意識していないことに気づきました。私がフリルのついた白いベールを被っている姿はちょっと、あれですが。さて、詩人は花嫁に向かって命じます。 「娘よ、聞け。心して耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。そうすれば、王はあなたの美しさを慕うだろう。彼こそあなたの主。彼の前にひれ伏せ。」(詩篇45篇11節) 「父と母を離れ、」(創世記2:24) ということです。よく結婚式の説教で、妻は、あばら骨が心臓の鼓動を聴くように夫の一番近くに寄り添う存在だと話します。私もそのような存在なのです。私の妻は、私の思いや好みを読んで先回りしてサポートしてくれます。また私と結婚してから料理を始め、今やその腕前は逸品です。私たち教会はそのようなキリストの花嫁なのです。確かにそれは美しいです。先日、ある美しい路地で妻が写真を撮っていたら、後ろから来た若いカップルの男性の方が「ここは写真禁止だよ」と声を荒げに注意してきました。妻は「ごめんなさい。知りませんでした。教えてくれてありがとうございます。」と答えたら、その男性は「表示してあるだろうが、クソだな。」と言い放ちました。クソ? 私はカチンときて、「おい兄ちゃん、いま何て言った?」と立ちはだかりかけましたが、グッと飲み込み、ひと睨みに留めました。主イエスは、ののしりられても、ののしり返さず、私たちに模範を示されました(Ⅰペテロ2:23)。しかしその時は模範というよりも、ののしられても、ののしり返さない中にあるキリストの心を覚えました。私たちは、キリストの心に一番近くある、あばら骨なるキリストの花嫁です。

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2020年10月18日

『ワンダー・君は太陽』という映画を観たのですが(実話に基づいた良い映画、一見の価値あり!)、主人公の障害を持つ少年は、ある日、彼の唯一の親友が学校で仲間たちと自分の悪口を言っているのを目撃し、ショックで立ち去りました。その親友は優しい心の持ち主で、主人公の少年と親友であることは変わらないのだが、他の友だちとのその場の会話の中で、つい悪口に同調してしまい、そこを目撃されてしまったのでした。この親友の心境、良く分かります。本心ではないのだけど、仲間たちとの会話の中でつい口裏を合わせてしまう、これは誰にもあることです。ガラテヤ人への手紙2章で、パウロはペテロ(ケファ)に義憤し、面と向かって抗議しています。ペテロは、ある人たちがヤコブのところ(エルサレム)から来る前は異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き離れて行った、そして他のユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまでその偽りの行動に引き込まれてしまいました(12,13)。パウロを育てたバルナバさえも引き込まれてしまったというのですから、引き込まれる人の弱さを思い知らされます。 私たちは、声の大きい人や利害関係、またその場の流れや雰囲気の中で、つい本心を偽った言動をしてしまいます。パウロは「彼らが福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいないのを見て、」(14)と言います。「福音の真理に真っすぐ歩む」とはどういうことでしょう。それは、しばし立ち止まって深呼吸をし、主イエスのみ旨、御言葉を受けとめていくことではないでしょうか。パウロは言います。「私たちは、一時も彼らに譲歩したり屈服したりすることはありませんでした。それは、福音の真理があなたがたのもとで保たれるためでした。」(5) 福音の真理が、私とあなたの隣人、次世代のもとで保たれるために。

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2020年10月11日

今回の霊修会も恵みの時でした。私たちクリスチャンはみことばを食らって生きる者です。それも食卓を囲んで。霊修会のみことばの静聴と小グループの分かち合いは、まさにそのひと時です。特に小グループの分かち合いは、普段あまり話す機会のない方と分かち合える良き機会であり、まるで、からだ(教会)全体に血液が循環し、全身が温かくなるような恵みです。 さて、マルコ1章9-45節の静聴を通して私に迫ったのは、ヨルダン川でバプテスマを受ける主イエス、その主イエスに向かって「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と告げる父なる神、そしてヘロデに捕えられたバプテスマのヨハネに見る、各々の決意です。それは十字架のみ旨に向かうところの決意であり、各々の決意に各々が呼応して、主イエスは「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と宣言しているように聞こえました。榎本保郎牧師が著作『教会づくり入門』の中で、私たちが何度も「良きサマリヤ人」(ルカ10:25-37)の話を聞いても、一向にそこに生きることができないのはなぜか?と問うています。その原因は「その後」を考えてしまうから。つまり、今この人を介抱したら負担が増えるな、ちょっと大変になるな、と「その後」をあれこれ打算して躊躇してしまう。榎本牧師はこう続けます「アブラハムがイサクをささげたことについて、ヘブル人の手紙の記者は 「彼は、神が死人の中から人をよみがえさせる力がある、と信じていたのである」(11:19) と記しています。この信仰なしに自分の子をささげてもそれは暴挙でしかありません。それと同じように、良きサマリヤ人も神への信頼なしには、あの愛の行為に生きることはできなかったのではないでしょうか。」 私はこの文章を読み、主イエス、父なる神、バプテスマのヨハネの「決意」と重なりました。ともに、みことばを食らって、みことばに迫られ、信仰によって働く愛に生きていきましょう。

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2020年10月4日

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐ~」で有名な詩篇42篇と次の43篇は、連続した一つの詩篇で、ヨルダンの北方に捕囚となった神殿歌手(賛美奉仕者)の嘆きの歌です。神の家、神の祭壇から遠く離れた異教の地で、42篇では「生ける神を求めて、渇いています。」、43篇では「神よ、私のために(不敬虔な民を)さばいてください。」と切望しています。不敬虔な民の間で敬虔に歩むとは、大きな戦いです。欺きと不正の世界、しかしその渦に巻き込まれず、主なる神を見つめ、畏れ、従っていきます。しかも彼は不正に黙っていません。訴えています。当然先方は彼を虐げます。彼はその苦悩を主に向かって「なぜ、あなたは私を退けられたのですか。なぜ、私は敵の虐げに、嘆いて歩き回るのですか。」と吐露しています。これは、敬虔なクリスチャンだれしもが経験することです。もう一度言います、不敬虔な民の間で敬虔に歩むとは、大きな戦いです。彼は、神の家に帰りたいと切望します。 「どうか、あなたの光とまことを送り、それらが私を導くようにしてください。あなたの聖なる山、あなたの住まいへと、それらが私を連れて行きますように。こうして、私は神の祭壇に、私の最も喜びとする神のみもとに行き、竪琴に合わせて、あなたをほめたたえます。神よ、私の神よ。」(43:3,4) 神の家に帰りたい、天の御国への望郷、これもこの世にあって敬虔に歩む者の切望です。それは日常でもあります。私たちは週の初め、神の家に集まり、神の家族とともに礼拝します。詩篇42、43篇をよく読むと、神の家に帰りたいとの切願が、彼の、神ご自身への不屈の信仰と希望へと繋がっているのが分かります。 「わがたましいよ、なぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。」(43:5) 週の初め、私たちは一同に会して主を礼拝します。そして異郷の地で、敬虔に戦っていくのです。

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