月別アーカイブ: 7月 2020

2020年7月26日

私は子どもの頃『おふろやさん』という絵本が好きでした。家族が銭湯で過ごす様子を中心に、銭湯の様々な場面を描いた楽しい絵本でした。東京の定番の銭湯で、歌舞伎座のような瓦屋根の門構え、後方には白い煙突が立ち、中に入ると番台があり、湯舟の後には富士山と松が描かれています。体を洗って湯舟に浸かり、ご近所さんと会話したり、じっと目をつむって湯に浸かったり、子どもたちは潜水したりして遊んで、はしゃぎすぎておじいさんに怒られたり、みな思い思いに過ごしています。最後は、男湯と女湯で「そろそろ出るよ~」と声をかけ合って風呂を上がり、コーヒー牛乳を飲んで家路に着きます。何ともほのぼのとする絵本で、田舎に住む私には憧れでもありました。 そして今や、私は東京に住んでいます。江古田界隈には3軒の銭湯があります。息子が銭湯を気に入ったので、最近またちょくちょく行くようになりました。初めて江古田の「浅間湯」に入った時は、湯の熱さに驚きました。温度計は45度を指しています。肩まで浸かるのが一苦労で、しかし、これがやみつきになるのです(最近、常連のおじいさんが、あの温度計は壊れていて本当は43度位だと教えてくれました。20年前から45度でしたが)。環七近くの「南湯」は、今や希少の歌舞伎座風の門構えの銭湯で、趣があります。さらに、教会から千川通りを都心に向かって500m程行ったところにある「江古田湯」は、今でも番台です。おじいさん一人で切り盛りしているようです。銭湯の大きな湯舟に浸かって見渡すと、目をつむってじっとしているオジサンたちが多いです。一日を振り返っているのか、何も考えずにボーとしているのか、ゆけむりの中の瞑想です。私も湯舟にゆったり浸かっていると、なにか神さまの懐に抱かれているような思いになります。せわしない東京での暮らし、家の中でもネットやTVに埋もれがち、皆さんはリフレッシュをしていますか? 私は銭湯でリフレッシュするオジサンの一人です。  

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2020年7月19日

再び東京都の感染者数が増加してきました。検査数が増えた影響でもあり、第一波のときのようなひっ迫した状況ではないとのことですが、都は、感染警戒を最高度に引き上げ、都民に注意を呼びかけています。このままでは再び緊急事態になりかねないと。私たちの教会も、7月から通常体制に戻しましたが、引き続き注意と配慮と協力が必要です。梅雨の季節、雨空のどんより天気が続いていますが、私たちの心と生活もどんよりです。キカッと快晴のもと、全身をワッと伸ばし、海にザブンと飛び込みたいものです。さて、水曜夜の祈祷会では詩篇を読み進めており、先週は33篇でした。 「【主】は、国々のはかりごとを破り、もろもろの民の計画をくじかれる。【主】のはかられることは、とこしえに立ち、みこころの計画は、代々に続く。」(詩篇33:10,11)。 そうです。私の計画はくじかれるとも、主のはかられることは、とこしえに立つのです。 「幸いなことよ、【主】を自らの神とする国は。神がご自分のゆずりとして選ばれた民は。」(12)。 私は幸いな者です。【主】を自らの神とする私、いや、神ご自身のゆずり(相続)として、私は選ばれました。 「見よ、【主】の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを待ち望む者に。彼らのたましいを死から救い出し、飢饉のときにも、彼らを生かし続けるために。」(18,19)。 「主を恐れる者」とは「主の恵みを待ち望む者」です。恵みと言えば、昨晩のバーモントカレーも美味かったな~。日中は、夏の「子どもEnglish Camp」の準備において嬉しい展開があり、チームの皆でワクワクしました。夜の「社会人のためのオンライン学び会」も恵まれました。「数えてみよ、主の恵み」です。私は主の恵みを待ち望みます。私たちの【主】は、コロナ禍にあっても、ご自身のはかりごとを推し進められます。私たちは、そのゆずり(相続)です。 ああ、主よ。あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

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2020年7月12日

クリスチャンになると「食前の祈り」をするようになります。だれからかレクチャーを受けたわけではないけれど、自然に身に付きます。朝晩は祈れないけど、食前の祈りはしているという人も少なくないのでは。一人でラーメン屋に入ったときも、食べる前には短く祈ります。クリスチャン同士の食事の席では、食前の祈りをどうするか、だれがするか、めいめいでするか、だれが仕切るのか、阿吽の呼吸で察していくのがクリスチャンあるあるです。余談ですが、めいめいの祈りをある牧師は「小羊の祈り」と言っていました。メーメー…。食前の祈りは短ければ短いほど良い、と言ったりもします。このように、私たちクリスチャンにとって食前の祈りは習慣、文化、しきたりになっているのですが、その中心には、「食事」と「神への感謝」は切っても切り離せない、私たちの生活の中心であるという真理があります。 出エジプト記16章、荒野を旅するイスラエルの民は、空腹を覚え、エジプトの肉鍋とパンが恋しいと不平を言いました。彼らの気持ちもわかります。荒野の中で食べ物が無いのは堪えます。空腹は私たちの根源的なストレスであり、不平の原因です。すると、彼らの不平を聞かれた神さまは、夜にはうずらを飛来させ、朝にはマナを降らせ、彼らの食事を備えられました。なぜなら、神ご自身がイスラエルの民をエジプトから召し出したからです。神は言われます。 「あなたがたは、夕方には、エジプトの地からあなたがたを導き出したのが主であったことを知り、朝には主の栄光を見る。」(出エジプト16:6,7) イスラエルの民は食事の毎にこのみことばも味わい、感謝の祈りをささげたのでしょう。私たちも罪の奴隷から救われ神の子とされ、神の栄光を反映する者へと召し出されました。感謝なことに、日本には肉鍋もパンも豊です。私たちは備えられた食事を神に感謝し、もりもり食べ、今日も召しに歩んでいきましょう。

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2020年7月5日

男たちが屋根をはがして中風の人を主イエスの前につり降ろし、主が癒しを行われた福音書の記事で、主イエスは「彼ら(男たち)の信仰を見て、 「友よ、あなたの罪は赦された」(ルカ5:20) と言われました。なぜそう言われたのでしょう?「彼らの信仰を見て」とあります。確かに、屋根をぶち破って中風の人を目の前につり降ろしてきたのですから、彼らの信仰には驚嘆します。しかし、なぜ「友よ」なのでしょう? 主イエスは最後の晩餐のときも、弟子たちに向かって「友よ」言われました。 「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。~ わたしはあなたがたのことを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:14,15) 主イエスは男たちを見て、同じ思いで「友よ」と言われたのではないでしょうか。彼らは大勢の人のために、病人を主イエスの前に運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って屋根をはがし、寝床ごと彼を主イエスの前につり降ろしました。この光景、よくよく考えてみると、主イエスが天から降りて来られた光景と似ています。 「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくし て、しもべの姿をとり、~自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:6-8) 主イエスも屋根をぶち破って降りて来られました。それしか私たちを救う方法はありませんでした。「友よ」とは、「わたしの御心を行っているわたしの友よ」という呼びかけだったのではないでしょうか。「友よ、あなたの罪は赦された」は、「友よ、わたしとあなたは一つだ。」と発しておられるようにも聞こえるのです。兎に角、私たちが本気で隣人を主イエスの御前に連れて行こうとするなら、時に、瓦をはがし屋根をぶち破ります。そしてそれは、降りていく歩み、主イエスについていく十字架の道です。

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