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月別アーカイブ: 6月 2020
2020年6月28日
レビ記16章には、年に一度の「贖いの日」の規定が記されています。神はイスラエルの民に向かって、罪がきよめられ、わたしがあなたがたのうちに臨在するために、「罪のきよめのいけにえ」と「全焼のいけにえ」をささげよと命じました。このことを言い換えるなら、あなたがたの罪がきよめられ、神が臨在するのに、あなたがたのやれることは一つもない、やるのはいけにえの家畜、いや、それは神がされること、神しかできないこと、ということです。そして神は命じます。 「(あなたがたは)いかなる仕事もしてはならない。この日は、(神が)あなたがたをきよめようと、あなたがたのために宥めが行われるからである。~ これがあなたがたのための全き休みのための安息日であり、あなたがたは自らを戒める。これは永遠の掟である」(レビ16:29-31)。 イスラエルの民は、会見の天幕の中で行われる「宥め」(なだめ)を見ることはできません。彼らはいかなる仕事も止め、天幕の外から「信仰の目によって」中を見つめました。 小冊子『いのちのことば』に連載されているコラムで、ある牧師がこう述べていました。「私は学校で聖書を教えているのですが、最初の授業でいつも言うことがあります。それは、“心のエンジンを止める”こと。学生たちは、学校生活でそれぞれ頑張っています。だから、この聖書の時間はその「頑張るエンジン」を止めてほしいのです。わかろうとするのではなく、ゆっくり耳を澄まし、受け止めてほしいのです」。このような聖書のクラスに参加したいですね。まさに慌ただしい学生生活の中での「全き休みの安息クラス」です。贖いの日、御子イエスは私たちの「罪のきよめのいけにえ」「全焼のいけにえ」となってくださいました。よって私たちは週に一度、いかなる仕事も止め、頑張るエンジンを止め、わかろうとすることも止め、ゆっくり主の御声に耳を澄まします。これが礼拝であり、全き休みの安息日なのです。
2020年6月21日
先日の教会スタッフミーティングにて、『みこえ』(週報)に掲載する礼拝人数報告について話し合いました。なぜなら今後もオンライン礼拝は継続し、礼拝は会堂のみではなくなるからです。私たちはコロナ禍によりオンライン礼拝を始めました。今、その恵みの証を多く聞きます。例えば、オンライン礼拝により念願だった夫婦で礼拝が守れるようになった、未信者の家族も礼拝に参加してくれている、チラチラと気にかけてくれている、日曜日が仕事でも違う時間に礼拝を守れるので感謝(配信はいつでも視聴可能)、等々、求道者への伝道としても用いられています。 また、かえって礼拝の姿勢を見直すことができた、思いのほか一体感を感じられる、との声も届いています。先週も遠方に住むご年配の方から、会堂には行けないので毎週のオンライン礼拝がとても感謝ですとのメールをいただきました。今後も教会はオンライン礼拝を止めるわけにはいきません。いや、コロナ禍と関係なくても、オンラインの活用は有益であると今回私たちは学びました。 とすると、今後の礼拝人数報告をどうしていくか?それは直近の課題です。これまでの「日曜日に会堂に集まる」との枠組みでは測れなくなりました。オンライン礼拝者数を正確にカウントするのも簡単ではありません。そもそも礼拝者数をそこまでカウントすることにどれほどの意味があるのか…。スタッフミーティングでの結論は、「会堂」の他に「オンライン」の欄を新たに設け、その週の金曜日までの配信閲覧数を記入することにしました。 コロナ禍をとおして、教会は新しいぶどう酒を入れる「新しい皮袋」が必要になっています。初代教会が異邦人を受入れる時と似ているでしょう。そのとき教会は、実際に起きている恵みの証と聖書の教えにより検証し、最低限のルールを設け、異邦人受入れ体制に適用しました(使徒15章)。私たちも同様に「新しい皮袋」を備えていきたいと思います。
2020年6月14日
前回「バーモントカレー」のことを書きましたが、先週のディボーションのみことばに 「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」(ローマ14:17) とありました。当時のローマの教会は「野菜しか食べない」禁欲的な信仰者たちと、「何でも食べる」開放的な信仰者たちの間で軋轢が生じていました。今日の日本の教会の「お酒は飲んで良いのか?」に相当するでしょうか。兎に角、「飲食」からさばき合いが生じたのです。しかし、よくよく考えてみると、戦争も環境破壊もその発端は「飲食」です。私と弟はウインナー一本で壮絶な争いをしました。妹は甘エビが嫌いなのですが、それは幼い頃「いただきます」を言う前に甘エビを殆ど食べてしまって、私と弟からしこたま怒られたからです…。 現在、全世界の食糧生産のなんと三分の一は廃棄され、食料廃棄量世界6位が日本とのことです。以前、妻がコンビニでバイトしていたとき、店長から「廃棄を出しても良いから、売り切れだけはないように受注して」といつも指示があったそうです。店長の気持ちもわかります。私たち客のニーズがそうなのですから。私たちは「飽食の時代」を生きています。ローマ人への手紙が書かれた当時のローマも同じでした。主イエスは食卓の交わりを重んじられました。パンとぶどう酒をとおして神の愛と恵み、そして恵みを分かち合って生きる私たちのあり方を表されました。神の国は食べたり飲んだりすることではありません。しかし、聖霊による義と平和と喜びが味わえる食卓は「神の国」です。そのような食卓が広がって欲しいです。そしてその食卓から、食料廃棄の解決に取り組むリーダーや専門家が生まれていったら素晴らしいです。先ずは、我が家の食卓からです。争いが起きぬようウインナーは等分で、いや、足りなかったら自分のをあげようと思います。感謝なことに、妹は甘エビが食べられるようになってきたそうです。
2020年6月7日
今回はカレールーのことを書きたいと思います。あなたの一番好きなカレールーは何ですか? 私は「バーモントカレー」です。しばらくバーモントカレーは食べていませんでした。「こくまろ」「ジャワカレー」「ゴールデンカレー」など、種類が豊富ですから。「ディナーカレー」はリッチでちょっと手が出ません。しかし、バーモントカレーを食べなかった一番の理由は「辛口」がなかったからです。それと、西城秀樹さんが「♪リンゴとはちみつ、ハウスバーモントカレ~♪」と歌い、「ヒデキ、カンゲキ~」っと、5等分にカットしたリンゴにたっぷりはちみつをかけるあのCM(同世代の皆さん分かりますよね)が脳裏にあって、どうしても、「カレーの王子様」的な子ども向けのイメージがあったからです。しかし数ヵ月前、久しぶりにバーモントカレーが食べたくなり、息子もいるので思い切って「甘口」を買いました。すると、めちゃくちゃ美味いのです!まさに「ヨシヤ、カンゲキ~」です。フルーツのコクとスパイスが利いていて、甘いのに甘くない、しかし息子は甘いので食べられる、バーモントマジックです。 現在、我が家の夕食は週に一度はバーモントカレーです。福神漬けはマスト、らっきょうもあったら申し分ありません。必ずおかわりします。翌朝も食べます。朝目覚めて、カレーが食べられると思うとワクワクします。ですよね。しかし、なぜこれほどバーモントカレーが美味いのか、妻は私ほど感激しておらず、シーフードカレーの方が好きとのこと、それは子どもの頃によく食べたからだそうです。そうなんです、私の子どもの頃の食卓がバーモントカレーだったのです。これが大きな要因でした。「懐かしさ」と「美味しさ」はリンクするのですね。「美味しい」と感じる要素で大きく占めるのは「安心」だと聞いたことがあります。さて、最近は息子の方がバーモントカレーをリクエストしてきます。“福音”は受け継がれています。