月別アーカイブ: 3月 2020

2020年3月29日

社会学者ロドニー・スターク氏は、なぜ初代キリスト教(教会)はローマ帝国を転覆させることができたのか?を研究しました(邦訳『キリスト教とローマ帝国』(新教出版社))。因みに、西暦40年頃のクリスチャン人口は1000人、ローマ帝国の人口は6000万人でした。さて、当時の社会の最大の脅威は、戦争でも苦役でもなく「疫病」でした。さすがのローマ帝国も疫病にはなす術がありません。例えば、ある村に疫病が蔓延しはじめたなら、先ず逃げ出したのが医者だったそうです。また、家族の中に罹患者が出たならば、家族全体への感染防止のため、その者を家から追放しました。今日のような医療と福祉がない時代、仕方のない苦渋の選択だったのでしょう。しかしそのような中、クリスチャンの家族はその捨てられた患者を引き取り看病しました。しかも一人だけでなく何人もの患者を家に入れて。しかし懸命な看病にもかかわらず、ひとり、ひとりと亡くなっていきます。やがて、クリスチャンとその異教の患者の割合が一対一となり、そのような中、その人はクリスチャン家族の愛の中でクリスチャンとなっていったそうです。そして、そのような出来事が1世紀から3世紀のローマ社会で何万回も繰り返されたとのことでした。 さて、新型コロナウイルスの脅威に脅かされている今日、初代教会と同様のキリストの愛の奉仕が世界中のクリスチャンの間で繰り返されていることと信じます。同じ聖霊が働いているのですから。しかし目を見張るのは、初代教会のクリスチャンたちのその行動より、彼らが、それほどまでに主を見上げ、キリストのみことばに満たされ、キリストのからだなる教会であったということです。私たちは第一に「礼拝者」なのです。 「このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。」(ヘブル12:28)

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2020年3月22日

「クリスチャンとは恵みをキャッチするキャッチャーである」と、以前みことばから教えられたことがあります。プロ野球の外野手がボールの軌道を読みながら落下地点に走り寄って真正面でボールをキャッチするように、私たちはバッターでなく、キャッチャーです。新型コロナウイルス感染が未だ終息しない現在、この視点はいよいよ大事だと思う今日この頃です。今年も教会の前の千川通りの桜が咲き始めました。見ごろになったら会堂一階テラス前に「どうぞお座りになって、ゆっくり桜を愛でてください」と貼り紙をして椅子を並べようかと思っています。 教会も前代未聞の感染防止体制ですが、先日、NGCメンバーの数名の方から「家庭礼拝」の恵みの証を分かち合ってくださり、私はとても恵まれました。毎週メーリングリストから送信される礼拝サポートメールに従って夫婦や家族で礼拝をささげ、みことばの分かち合いがとても恵まれているとのこと。教会の一切の活動が自粛や縮小せざるを得ないこの状況、しかし見方を変えるならば、希な機会とも言えるのです。新しい恵みをキャッチし、体験できる機会です。 先日も、Webチームの皆さんが懸命に作業をしてくださり、いよいよインターネットによる礼拝ライブ配信が始まります。いつかは、と思っていましたが、この危機が機会となりました。NGCのYouTubeチャンネルの開設です。先週のディボーション箇所の使徒2章で、「私たちはどうしたらよいでしょうか」との問いかけに、ペテロは「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と答えました。そうです、私たちは助け主、聖霊を受けているのです。また、ペテロは「この曲がった時代から救われなさい。」とも告げました。そうです、この曲がった時代の中にあって救いをもたらす神の恵みが、今注がれているのです。私たちは神の恵みの名キャッチャーです。  

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2020年3月15日

前回に続き、新型コロナウイルスの震源地となった武漢に住む中国人牧師からの手紙(抜粋)をご紹介します。 『今の状況で言うなら、武漢の疫病はキリストの愛から私たちを引き離すことはできません。この事実は私たちにとって本当に慰めです。私たちは既にキリストと一体なのですから。キリストのすべては私たちのものであり、私たちのすべてはキリストのものです。だから、この町で私たちが疫病に直面している時、キリストも私たちと共におられます。疫病は私たちに害を与えることはできません。同時に、私たちが疫病の中で死ぬなら、それはキリストを証しする機会であり、さらにキリストの栄光に入る機会です。ですから兄弟姉妹の皆さん、キリストの愛によって強められてください。この疫病で死と福音を深く理解する時、私たちはキリストの愛をより深く経験し、より神を近くに体験することができます。私たちのキリストは比類なき死の苦しみを通りましたが、神は彼を死からよみがえらせ、右の座に上げられました(使徒2:32~36)。私たちが今経験しているのは、アブラハムがソドムと、ヨナがニネベと向き合っている状態ではないでしょうか。私たちはソドムのために真剣に祈ったアブラハムのようでしょうか(創世18:23~33)。ヨナは非常な困難を覚えつつもニネベに福音を伝えました。それによってニネベは悔い改め救われました。私たちはこの町のアブラハムとヨナです。私たちはこの町の平和を求め、病気に苦しむ人々、最前線で闘っている医療関係者、あらゆる階層のすべての政府関係者、武漢のすべての人の平和を求めましょう!善良な人々が、特に医療関係者が、自分たちの命を危険にさらしてこの町のために労しています。彼らがそのようにこの世の責任を引き受けるのなら、私たちは霊的な責任を進んで引き受けずにはいられません。この町が救われるのは、主のあわれみという希望を通してのみなのです。』 「窮した者の祈りを顧み 彼らの祈りをないがしろにされないからです。」(詩篇102:17)  

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2020年3月8日

今、この時、改めて先日の礼拝でご紹介した、新型コロナウイルスの震源地となった武漢に住む中国人牧師から、世界中の クリスチャンに宛てた手紙をご紹介します(一部抜粋、2回に分けて掲載)。 「兄弟姉妹の皆さんに平安がありますように。ここ数日、ウイルスが私の生活と思考の中心でした。常にニュースをチェックし、家族と教会がこれにどう向き合えばよいのかを考え続けています。家族のためにはマスクと食料を集め、外出は極力控えています。教会については、皆の安全を確保しながらも、この厳しい状況の中、忠実な証人でいるためにどうすれば良いかと考えています。こうしたあらゆる思いが混じって葛藤しています。しかし、私たちは主の約束に信頼しています。私たちに対する主の思いは災いではなく平安であり(エレミヤ29:11)、私たちに試練の時を許し、滅ぼすのではなく私たちを建て上げてくださいます。ですからクリスチャンは、町の人と共に苦しむだけでなく、恐れている人々のために祈り、イエス・キリストの平安をもたらす役目があるのです。まず、キリストの平安が私たちの心を支配しますように(コロサイ3:15)。キリストはすでに私たちに平安を与えてくださっていますが、それは災いと死を免れることを意味するのではなく、むしろその真ん中にあっても平安だということです。キリストが既に病や死に勝利してくださいましたから(ヨハネ14:27、16:33)。なぜ私たちは平安を持つことができるのでしょう。主は「悪しき者には平安がない」(イザヤ48:22)と言われました。私たちはかつてみな罪人で、平安がありませんでした。しかしキリストが、私たちの罰を身代わりに受けてくださり、ご自身の平安を与えてくださったのです。クリスチャンは地上において苦しみに直面するかもしれませんが、その苦難は罰ではなく、全能者なる神の御そば近くで成長し、たましいの不純物を除き、福音を宣言する新しいチャンスなのです。』 つづく。  

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2020年3月1日

以前ここで私のお気に入りの江古田のラーメン屋『太陽』をご紹介しましたが、久しぶりに第二弾、今回は私のお気に入りのカフェ『江古田珈琲焙煎所』をご紹介します。江古田と言っても新江古田駅から中野方面へ7分程歩いた通り沿いにある小さなカフェなのですが、時間ができてホッと一息つきたいときに行っています。店名のとおり、入口横には大きな墨色の焙煎機があり、10席程の店内は素朴でいつもセンスの良いjazzが静かに流れています。私と同世代と思われるご夫婦が営んでおられ、口髭をたくわえた物静かで登山家のような趣のご主人と、優しさが一面に醸し出されている奥様が丁寧に接客をしてくれます。カウンター越しにご主人が珈琲を淹れる様子は一見の価値ありです。両脇を締め、左手で右手首を握ってポットを固定し、一定のリズムで体を動かしながら湯を注ぎます。こんなに集中して真剣に一杯の珈琲を淹れている姿は他に見たことがありません。まるで茶室でお茶を点てているかのようで、その凛とした佇まいが店内に良きアクセントを醸し出しています。言うまでもなく珈琲は美味しく、その味と香りの余韻を楽しみます。本当に落ち着きます。パソコン使用禁止も功を奏しているでしょう。通っていて気づくのは、私のように一人で来店する客が多いことです。静かに珈琲を味わい、あまり長居しないで店を出て行きます。皆ここでホッと一息ついているのでしょう。よくよく見渡してみると、店の広さ、焙煎機と素朴な内装、静かに流れるjazz、店主ご夫妻の佇まい、そして美味しい珈琲、それらすべてが「一息つく」ために絶妙に計算されているかのようです。だらっとできる家も良いですが、ホッと一息つける居場所も至極幸せです。そういえば私はまだ店主ご夫婦と会話をしたことがありません。美味しい珈琲は沈黙を誘います。人のぬくもりを感じながら沈黙できる『江古田珈琲焙煎所』、私は良きお店を見つけました。

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