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カテゴリー別アーカイブ: ボクシ・ボイス
2023年3月19日
エステル記は、ペルシア帝国在留ユダヤ人に突然降りかかった滅亡の危機が、大どんでん返しによって回避されるという胸がすく物語です。そしてその立役者がエステルです。時の王クセルクセスは、有力者や諸州の首長たちを王宮に招いて大宴会を催します。王は王妃ワシュティの美しさを参加者に自慢しようと呼び出しますが、王妃は「私は見世物ではない!」と言わんばかりに応じません。王は憤り、侍従たちの進言に従いワシュティを退け、新しい王妃候補を探し始めました。一方、エステルは幼い頃に両親に先立たれ、敬虔な信仰者である叔父モルデカイの養子となり育ちました。エステルは容姿の美しい娘でした。よって王妃に選ばれました。『人は見た目が9割』という新書がありましたが、やはり容姿が決め手なのでしょうか、であったら私は太刀打ちできません。やがてエステルは王の側近ハマンが仕掛けた、ユダヤ人滅亡計画を命がけで阻止することになります。その時にモルデカイがエステルに言った言葉は有名です。 「あなたがこの王国に来た(王妃の位についた)のは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」(4:14)。 エステルは使命に立ち上がりました。そのためにエステルの容姿は用いられました。しかしそれだけではなく、主なる神への信仰と、モルデカイはじめ在留ユダヤ人共同体により、エステルは使命に歩むことができました。美しい容姿は賜物です。私にも私なりの賜物が与えられています。エステルが王妃としてペルシア王宮に置かれたことも「主の賜物」と言えるでしょう。であるなれば、私が今置かれているところも「主の賜物」です。そして私も主なる神への信仰と、現代のモルデカイを擁する教会共同体が与えられています。使命は、賜物(今置かれているところの自分自身)+信仰+教会共同体によって明確になるのだと教えられました。あなたも私も、美しい「現在のエステル」だということです。
2023年3月12日
WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が開幕しました。興味のない方も大谷翔平選手はご存じでしょう。先週の阪神との強化試合は圧巻の二打席連続3ランホームランを放ち、さすがメージャーリーグのトップ選手、日本のスーパースターです。しかしあるWebの記事を読んで私は感銘を受けました。その記事は大谷選手の前打者(2番)の近藤健介選手を特集していました。3ランホームランということは、大谷選手の前に二人が出塁していたということです。1番は大谷選手とともに脚光を浴びているラーズ・ヌートバー選手、初の日系人選手として日本代表に選出された大リーガー、さすが、確実にヒットを打って出塁します。そして2番手が近藤健介選手です。先程の強化試合、2打席とも四球(フォアボール)を選んで出塁しました(ルールの分からない方はごめんなさい。しかしこれが凄いのです)。近藤選手の選球眼の良さと出塁率の高さはピカイチで、日本ハム時代の2019年にはパ・リーグ最多の103四球を選び、最高出塁率をマーク、20年も最高出塁率を記録しました。 いくら大谷選手がホームランを打っても、走者がいなければ1点止まり、また、走者がいなければ、相手投手に「大谷選手を歩かせても大丈夫」という選択肢が増え、厳しいコースを突くことができて、大谷選手も芯で捉えるのが簡単ではなくなるそうです。つまり、大谷選手の前に、いかに走者をためるかがWBC本戦の鍵なのです。2打席とも四球を選んだ近藤選手は「つなげばこうなると思っていた。自分の役割を全うできた。(自分は)一発で決められる選手ではない、お膳立てに力を注ぐ」と、果たすべき役割を自認し、「つなぐ」ことに徹しました。いぶし銀です。それはグラウンドだけではなく、元チームメイトで年下の大谷選手が周囲の選手と気持ち良くプレーできるよう、「橋渡し役」に努めているそうです。2023年度NGCテーマ「キリストにあるハーモニーを奏で、響き渡らせよう」もさもありなん、と思いました。
2023年3月5日
江古田にシャノアール(喫茶店)が無くなって久しいです。コロナ禍に突然閉店したのはショックでした。礼拝の帰りにシャノアールで歓談した方も多かったのでは。なんか落ち着きましたよね。お洒落なカフェも良いですが喫茶店も良いです。最近耳にする「昭和レトロ」です。歳をとったせいでしょうか、なんか懐かしく、安心し、琴線に触れるのです。そしたら最近、第二のシャノアールを見つけました。江古田駅から少し入った所にある「珈琲館」です。存在は知っていましたが見過ごしていました。ふと入ったら、シャノアール以上に喫茶店ではありませんか! 店内には古き良きアメリカンポップミュージックが流れ、椅子やテーブルなど内装は昭和、店員は親切で、店員同士のやり取りも気持ち良く、朝はご年配の方々中心に、種類豊富なモーニングセットを頼んで思い思いに過ごしています。こんがりトーストのいい香りです。今私はそこにいます(月曜の朝)。ご婦人がバナナジュースを注文しました。バナナジュース、良い響きではありませんか。もちろんメニューにはホットケーキやナポリタンもあります。いや~なんとも居心地が良いです。良い場所を見つけました。というか、こういう場所が居心地良くなりました。 桜台に「久松湯」という温泉を掘ってお洒落にリニューアルした銭湯がありますが、息子は好きなのですが、私はやっぱり江古田湯です。今も番台で、年代物の体重計やマッサージチェアがあり、桶は年季の入った黄色いケロリン、ご年配中心でなんとも落ち着くのです。毎週日曜夕方の楽しみとなっています。だれにでも歳をとっても幼い頃のホッとする思い出や雰囲気が心に残っています。そこに人生を重ねる中で味わった経験も合わさって、言葉では言いようがない何とも居心地の良い場所と出会う時があります。あなたにもそのような場所はありますか? さて、次回はバナナジュースにしよう、それともホットケーキにしちゃおうか。
2023年2月26日
NHKの番組「こころの時代」で『問われる宗教と“カルト”』と題した宗教学者たちの討論会を観ました。大変示唆に富み、牧師、宗教者の一人として勉強になりました。YouTubeもあるので関心のある方はご覧下さい。カトリック教徒の批評家、随筆家である若松英輔氏は、宗教がカルト化しないために絶対に超えてはならない壁を三つ挙げていました。 ①恐怖の壁。恐怖によって人を縛り付けようとすること。 ②搾取の壁。持たざるものから、その人の生活が破綻するまで何かを搾取しようとすること。 ③拘束の壁。宗教が真の意味で宗教であるならば出入りは自由であるはず、人は信じるだけでなく迷う自由もある、人が立ち止まり、迷い、そして何かを探求することが宗教を信じることによって失われていくのだとしたらそれは残念。 浄土真宗僧侶で宗教学者である釈徹宗氏はカルトと宗教を見極める手段として、絵画で風景を捉えるときの手法「近景・中景・遠景」を挙げていました。近くを描くときは近景、遠くを描くときは遠景、その間を描くのが中景です。それを宗教に当てはめるなら、「私自身」の問題は近景、逆に「聖なるもの」「聖なる領域」は遠景、そして聖なるものと自身が直結するのが“宗教体験”であり、しかしその間に「中景」がある。それは他者や地域コミュニティや文化との関係、さらには宗教間の対話にまで及びます。そして、カルトや原理主義と呼ばれるものは「中景」がとても細くなっていて、「近景」「遠景」が太くなっている、つまり「自分自身」と「聖なるもの」とその関係が重視され、日常としての中間領域(社会との関係)が軽視されています。とても的確な指摘、指標であると教えられました。では、私たち教会と私自身の近景、中景、遠景はどうだろうか? 「中景」を評価することはカルト化を見極めるためのポイントだということです。逆に中景だけが太くなっていたら、それは「世俗化」世に迎合しているということです。バランスが大事ですね。
2023年2月19日
ダレイオス王は優秀なダニエルを太守に任命し、全国を治めさせようとしました。聖書はこう告げます。 「彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。」(ダニエル書6:3)。 世界にはあらゆる神がいますが、主(ヤハウェ)なる神を信じ従う者には「すぐれた霊」が宿るのです。確かに、そう思います。人は何を信じ、どのような共同体で生活するかによって価値観や世界観が定まります。ダニエルはバビロンの地にあって主を信じ歩みましたが、私たちも日本の地にあって同じ主を信じ歩んでいます。しかしそのようなダニエルに周りは黙っていません。彼らはダニエルを陥れようとダニエルの粗探しをします。しかし何も見つからず、すると彼らは「王以外を礼拝する者はライオンの穴に投げ込まれなければならない」という禁令を定め、王も機嫌よくその禁令に署名しました。ダニエルもその策略をよく分かっていました。しかしダニエルは自分の家に帰り、屋上の部屋のエルサレムの方角にある窓を開けてひざまずき、いつもと同じように日に三度、主の前に祈り感謝をささげました。「ダニエルとライオンの穴の物語」(ダニエル書6章)の始まりです。 しかし、ダニエルはなぜこのような不条理な危機にあっても、このような信仰者であれたのでしょう? その要因の一つは、ダニエルが「捕囚の身」であったからではないでしょうか。捕囚の身であったからこそ、ダニエルはすぐれた霊を宿すことができ、エルサレムに向かって日に三度祈り、主の約束を見つめ、主に感謝をささげることができたのではないでしょうか。旧約聖書のほとんどはバビロン捕囚の時代に完成したと言われています。茫漠とした地の上に「光、あれ」と神が仰せられた創世記も、あの出エジプト記も、バビロン捕囚のイスラエルの民にとって「神のことば」なのです。捕囚、困難の中にあってこそ信仰は練られ、すぐれた霊を宿し、神の栄光が現わされていくことを覚えたいと思います。
2023年2月12日
トルコ・シリアで大地震が起こりました。甚大な被害に胸が痛みます。私は今、毎週火曜夜のオンライン・アラビア語講座を受講していますが(NGCからは関口さんも)、講師はシリア難民のアハマドさんです。先週のクラスではシリアの被災状況を話してくれました。アハマドさん家族の故郷は甚大な被害を受けたアレッポです。幸い親族や知人は無事だったそうですが、マイナスまで冷え込む夜に野外で寝泊まりしているそうです(8日現在)。そもそもシリアは地震がほとんどない国で、建物の耐震処置は全くなされてなく、よって多くの建物が倒壊しました。しかし最も深刻なのは北西部の都市イドリブで、そこは難民も多く、しかし彼らはテントではなく、鉄骨の入っていないコンクリートで造られた即席建物に住んでいるため、多くの犠牲者が出ているそうです。さらに、イドリブ県はトルコが支援する反政府勢力が治めているため、シリア政府の救援は全く届いていないそうです。 ご承知の通り、私たちが見聞きする報道の殆どはトルコの状況で、日本(アメリカ側)の救援隊もトルコに派遣されています。しかし私は、こうしてシリア人からシリアの状況を聞いています。感慨深い気持ちになりました。アハマドさんは震災を経験する私たちにアドバイスを求めてきました。私はハッと気づきました。今回のオンライン・アラビア語講座も、その受講者の繋がりも、元はといえば2011.3.11東日本大震災ではありませんか。震災をとおして、想像だにしなかった新しい出会い、協力、新しい扉が開かれました。私はそのことをアハマドさんに伝えました。震災は苦難の極みです。しかし震災をとおして断絶に回復が生じ、政治が出来なかったこと、教会が出来なかったことが起こっていく、これが私たちの経験です。10年間岩手の震災復興に携わったあんちゃんが中東に遣わされています。思ってもいませんでしたが、あんちゃん岩手10年の経験、私たちの震災の経験が、これからかの地で益とされていくのです。
2023年2月5日
バビロンのネブカドネツァル王は夢を見て、その夢に心が騒ぎ、眠れなくなりました(ダニエル書2章)。そこで王は呪法師、呪文師、呪術者、カルデア人を呼び寄せ、その夢の意味を告げるように命じます。呼ばれた知者たちは待っていましたと馳せ参じ、王の夢を解き明かそうとします。王に認められる絶好の機会ですから。しかし当然ながら、彼らの心には王からの承認、栄誉、報酬を得るというバイアスがかかり、王に喜ばれるよう解き明かそうとします。王もそのへんは見抜いていて、彼らに夢の内容は告げず、そのうえで夢の内容とその意味を言えと難題を命じました。それにはさすがの選り抜きの知者たちもお手上げです。すると王は大いに怒り、バビロンの知者をすべて滅ぼせと命じました。さて、そこにダニエルの登場です。ダニエルは見事に王の夢を言い当て、その意味を解き明かし、そこからダニエル書は展開していきました。 ダニエルはなぜ王の夢を解き明かすとことができたのでしょう? もちろんダニエルは王の王である主に仕える信仰があったので、忖度を払拭することができたのでしょう。しかしもう一つ言えるのは、ダニエルが外国人であったからではないでしょうか。ダニエルはバビロンに侵略されて捕囚として連行されてきたユダヤ人です。だからこそ真実を言い当てることができるのでは。バビロンの選り抜きの知者であっても、所詮「井の中の蛙」です。皆さんも外の人の意見やことばにドキッとした、なるほどと納得した経験があるのではないでしょうか。信仰をもって間もない方の祈りを聞いて、心が洗われるような経験をしたことがあるのではないでしょうか。特に、子どもの一言や、弱さの中にある人の一言は本質を突きます。その道の知者の意見は大切です。しかし時に、主は、外の人、小さい人、弱い立場の人々を遣わし、眠れなくなるあなたの夢を解き明かされるのです。彼らは主が遣わされた御使いなのです。
2023年1月29日
『せかいいちうつくしいぼくの村』という絵本を読みました。ほっこりする絵と物語、舞台は中東のパグマンという美しい村です。夏になると果物がたわわに実り、村じゅうがあまい香りにつつまれ、村の人たちは家族そろって、あんずや、すももや、さくらんぼを収穫します。小さな男の子のヤモはこの季節が一年で一番楽しくて、兄さんのハルーンと競争しながらかごいっぱいに収穫しました。しかしこの年の夏、兄さんは戦争に兵隊で行っていていません。ヤモは父さんと一緒にすももとさくらんぼを町に売りに行くことになりました。村の人たちも「おーい、ヤモ。おでかけかい。たくさん売れるといいね」と声をかけてきます。お父さんは街の広場ですももを売り、ヤモはバザールを周りながらさくらんぼを売り、食堂で遅い昼ご飯を食べました。父さんは言いました。「ヤモ、後でびっくりすることがあるよ」「え! なになに!?」 果物を全てを売り終わると、ヤモは父さんの肩の上で大きな声で歌います。「♪なんだ、なんだ?びっくりすることってなーんだ♪」 父さんは羊の市場に行き、儲けたお金を全部使って真っ白な子羊を一頭買いました。ヤモの家の初めての羊です。こんな綺麗な羊は村のだれも持っていません。「さあ、家へ帰ろう。羊を見たら、きっとみんな驚くよ」ヤモは大喜びで村へ帰りました。なつかしい匂いがします。たった一日いなかっただけなのに、とても長い旅から帰ったような気がします。「パグマンはいいな。せかいいちうつくしいぼくの村」ヤモはそっとつぶやきました。「ハルーン兄さん、早く帰っておいでよ。うちの家族が増えたんだよ」 ヤモは父さんに頼んで、白い子羊に「バハール」という名前をつけました。「春」という意味です。 私はほっこりしながら最後のページをめくりました。そこには衝撃の一文のみありました。しばし動けませんでした。絵本でこんなに衝撃を受けたことはありません。そして息子に読ませようと思いました。子どもたちに読ませたいと思いました。
2023年1月22日
陣内先生から紹介された本『聖書とエコロジー』(リチャード・ボウカム著/いのちのことば社)は目からウロコでした。この本は 「~神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」」(創世記1:26-28) の解釈について、改めて聖書全体から見直し、聖書の主なる関心事は「神と人」との関係のみならず、「神と人そしてその他の被造物」の三者の調和のとれた関係である、と教えます。これまで私(私たち)は上記のみことばを、人は神のかたちに創造され、全被造物を支配(管理)する役割が与えられた、しかし罪によりその役割から堕落し、被造物を自己中心的に支配、搾取するようになった、と理解してきたと思います。しかしそれは本当に聖書が教えていることだろうか? 人が全被造物を支配(管理)するなんて不遜ではないか? 今日の脅威である気候変動に、人類は悔い改めて回復と維持に取り組む必要があります。しかしだからといって、人類は未だ気候変動の全容を知りえません。その他にも被造物世界(自然界)には、私たちの知らない、おそらく決して知ることのできない多くの事柄があります。よって「人類は気候変動はじめ全被造物をコントロールする」という考えは大いなる思い上がりではないか?「ヤギが庭師としての役割を果たす以上に、私たち人類が、地球の受託者、開発者として適切だとは言えない」。では、神が人へ命じる「すべての生き物を支配せよ。」とはどのような意味なのか? その問いへの返答が本書の内容です。ぜひお読みください。たいへん示唆に富んでいます。また、改めて「神学は更新されていくもの(いよいよ奥義が明らかにされていく、しかし完全にはわかりえない)」ことを教えられました。よって、謙虚に学ぶことを怠ってはなりません。
2023年1月15日
エレミヤ書26章20-24節に預言者ウリヤとエレミヤのことが記されています。時代はいよいよ悪い方向へ向かっています。南ユダ王国は空前の灯です。しかし王も民も分かっていません。その中で主のみことばを取り次いだのがウリヤとエレミヤでした。二人は都と地に向かって主の御名によって預言しました。するとエホヤキム王はウリヤを殺そうとします。ウリヤはエジプトに逃げますが、王の手下に捕まり剣で打ち殺されました。当然エレミヤの命も狙われます。しかしシャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、命は守られました。預言者の一人は殺され、一人は生かされた。不条理、ウリヤは無念、惨め、浮かばれない、しかしそうだろうか? 使徒パウロのことばが響きました。 「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:8)。 悪い方へ向かう時代、ウリヤは真剣にみことばに聴き、確信もってみことばを取り次ぎ、勇敢にみことばで戦って死にました。エホヤキム王の周りには王におもねる預言者たちがいましたが、ウリヤは彼らとくみしませんでした。一方、エレミヤは生かされました。ウリヤの死を受けて、いよいよ召命と使命を覚えたことでしょう。よって今日エレミヤ書があります。 時に時代は悪くなります。その中でキリスト者はどう生きるのか? エレミヤの命がアヒカムによって守られたように、私たちの命も守られています。生きているのではなく、生かされています。私たち教会は主のものです。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」との告白が湧き上がるほどに、主のあわれみと恵みと希望を知らされる私たちです。私は牧師として何に最も力を注ぐのか? 主のみ旨を真剣に求め、悪い時代に屈することも、おもねることなく、みことばを取り次ぎ、みことばに生きたウリヤとエレミヤが迫ってきました。