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2023年9月17日

次の「なぜ」はどのような「なぜ」だと思いますか? 「なぜ、国々は騒ぎ立ち、もろもろの国民は空しいことを企むのか。なぜ、地の王たちは立ち構え、君主たちは相ともに集まるのか。主と、主に油注がれた者に対して。」(詩篇2:1,2)。 「神さまなぜですか?」と苦悩の「なぜ」か、それとも、「万軍の主に敵対するなんて!」と驚きの「なぜ」か、あなたの「なぜ」はどちらが多いでしょう? 詩篇2篇の「なぜ」は後者です。地の王たちは、主と、主に油注がれた者に敵対します。しかし詩人は「天の御座に着いておられる方は笑い、主はその者どもを嘲られる。」(4)と神の視点で見つめます。「主に油注がれた者」も言います。「主は私に言われた。「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。地の果ての果てまで、あなたの所有として。あなたは、鉄の杖で彼らを牧し、陶器師が器を砕くように粉々にする。」(7-9)。よって詩人は確信に満ち、「それゆえ今、王たちよ、悟れ。地をさばく者たちよ、慎め。恐れつつ、主に仕えよ。おののきつつ震え、子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。」(10-12)と叫ぶのです。あなたは自分の王国を広めるのか、それとも、王なる主に仕えるのか! そして詩人は結びます。「幸いなことよ、すべて主に身を避ける人は。」(12)。私たちの前に敵や問題が立ちはだかります。しかし、油注がれた者(メシヤ)がおられることと、メシヤが成し遂げられたこと、成し遂げられることを知っているのと知らないのでは、雲泥の差です。使徒4章、ペテロとヨハネは主に従ったゆえに拘束されました。しかし教会は上記の詩篇2:1,2を朗読し(使徒4:25,26)、祈ります。 「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」(使徒4:29,30)。

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2023年9月10日

前回、我が家は里子を迎えることを書きました。里子ちゃんとの交流のため6月から妻と通っているのが、信濃町にある二葉乳児院です。近くに国立競技場が見える都心の一等地です。しかし明治・大正の時代、この地は貧民窟でした。言われてみれば、JR信濃町駅からかなりの急坂を下った谷間に二葉乳児院はあります。そして二葉乳児院は、貧民窟の子どもたちの救済ために立ち上がった、いや、暗い谷間に降りて行ったキリスト者と教会によって誕生しました。現在も、職員の方がクリスチャンでなくとも、食前は感謝の歌を歌い、お祈りをし、皆でアーメンと声を合わせます。因みに、信濃町駅の隣は創価学会の本部で、戦後の貧民救済から成長したとのこと。学会の建物の間にはカトリックの施設も点在しています。 さて、私たちの担当のケースワーカーさんは、誠実で笑顔を絶やさない女性の方なのですが、初対面のとき、妻が事前に送った挨拶の葉書が、NGCで受洗された絵本作家の亀岡亜希子さん(現在山形在住)の絵葉書で、ケースワーカーさんはその絵葉書をきっかけにクリスチャンであることを伝えてくれました。仕事上なので信仰の話はできませんが、私たちは小さく喜び合いました。そして先日(9月初め)、会話の流れの中で、ケースワーカーさんは御茶ノ水にある教会のメンバーであることを知りました。御茶ノ水には神学校(TCU)時代の後輩が牧師をする教会があります。なので、私は「あだっち(後輩のあだ名)の教会?」と、知る人のみ反応できる言葉を使って聞いてみると、「そうです~!」と言うではありませんか。私たちは感激し、少しの時間信仰の話で盛り上がりました。もちろん、その後「あだっち」にもそのことを伝え、大いに盛り上がりました。私たちキリスト者は、脈々と、様々な場所に遣わされていて、キリストによって、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、建てられているのです(エペソ4:16)。そのことを知らされるとき、私たちの大きな喜び、励ましです。

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2023年9月3日

今秋、我が家に里子が来ることになりました。2歳8か月の男の子です。数年前に私と妻は里親になることを決め、研修を修了し、2年程前から受入れを待っていました。そして遂に今年の4月、児童相談所から2歳の男の子の養育家庭エントリーの打診が来ました。もちろん私たちはエントリーしました。他にもエントリーする夫婦がいるので、審査をし、私たち夫婦に決まったら連絡するとのことでした。聞くところによると、東京都では普通40組ぐらいのエントリーがあるそうで、私たちは神さまに委ね、淡々と待ち望みました。すると1ヶ月後、私たちに決まったとの連絡が来たのです。早速、児童相談所の職員やケースワーカーの家庭訪問があり、書類提出などの下準備を進め、6月には乳児院を訪れ、里子ちゃんと初対面をしました。私たちのことを「ちゃんちゃん」「しおちゃん」と呼んでもらい、先ずは一緒に遊ぶことができました。けっこう自分は小っちゃい子と遊ぶ賜物があるなと思いましたが、なんと児童相談所の職員さんが私たち夫婦の絵本を作って、私たちのことを紹介してくれていたのです。感動しました。それから週に二回、乳児院で里子ちゃんとの交流が始まりました。最初は大部屋で皆と一緒、慣れてきたら個室で私たち三人と、それから近くの公園に遊びに行き、親子ルームで一日過ごし、息子とも対面し、我が家に日帰り訪問、一泊外泊、三泊、一週間…、そして完全に迎え入れます。私の両親も里親をしていましたが、一回対面したら次には家に来ていたと言っていたので(40年前)、時代は変わりました。兎に角、可愛いです。50を過ぎてまたオムツ替えから始まるかと思うと、ちょっとおののきますが、みことばがいのちです。 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15:5)。 10月頃には教会の皆さんに紹介できると思います。どうぞよろしくお願いします。

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2023年8月27日

練馬区の健康診断を受診しました。忙しさにかまけて6年振りになってしまいましたが、血液検査、胃カメラ、心電図等々、淡々とこなして帰るつもりでした。しかし別室に呼ばれました。初めてのことです。ベテラン風の女性指導員が診断結果をもとに説明してくれて、「このままでは糖尿病になる、食生活を改善し、2ヶ月間で体重3㎏落としなさい」と指導されました。いや~、驚きました。私は体重83㎏をキープしていて、それ以上にならなければよいと。適度に運動もしていましたが、それはダイエット目的ではなく、83㎏をキープしつつモリモリ美味しく食べるためでした。しかし、特に肝臓が黄色信号になっていました。やはり50を過ぎたら考え方を変えないとダメなようです。 それからというもの、間食とジュースをやめ、夕飯は白米を抜くか少量にし、食後は30分間のウォーキングを始めました。私は食べるのが大好きで、しかも残すのが嫌いで、家族が残したものはすべて平らげ、大概120%の満腹感でした。それが満足でした。なので、特に白飯を腹いっぱい食べられなくなると思うと、辛いというより悲しくなりました。しかしなんてことでしょう、始めてみるとそんなに苦しくないではありませんか。おやつがなくても大丈夫です。一週間経つと、胃が小さくなってきたのか、以前のように食べられなくなりました。驚きです。そして感慨深いのは、料理一つひとつがより美味しく味わえるようになりました。これが本当の「豊かな食事」です。満腹感120%から離れることへの寂しさがありましたが、それは異常なマインドコントロールの呪縛だったのです。食後のウォーキングもハマり、ダイエットと関係なく良きリフレッシュとなっています。私の前に、健康診断を契機に、新しい世界が開きました。「ここから離れるのは寂しい」という思いは偶像で、新しい素晴らしき世界があるのです。さて、1ヶ月で4㎏の減量に成功しました。はい、リバウンドに気をつけます。

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2023年8月20日

「私は神学でなく聖書を信じる」という声を聞くことがあります。私が牧師を志して神学校を調べていたとき、神学校の名称に「神学」が入る学校は神学を強調し、「聖書」が入る学校は聖書を強調している、とアドバイスを受けたことがありました。しかし神学校で学んでいくとそれは違うことが分かりました。「神学」とは「聖書を理解する」ことであり、「聖書を理解する」とは「聖書の神学を理解する」ことなのです。厳密に言うなら、神学を学んだ学者や牧師の教えにより、私たちは聖書を理解します。また「聖書を信じる」ということも広がりと深みがあります。複数の教会に属したことのある方は経験があると思いますが、例えは、私の母教会は単立の教会で私の信仰の原点です。次に属した帯広の教会は「ブラザレン」という教派で、「牧師」という名称は無く、礼拝で女性たちは頭に白いレースを被っていました。そして練馬教会です。正直、最初は耳に入って来る「きよめ」「三大祷告」「イスラエル」等々、戸惑いました。このように、イエス・キリストをかしらする同じ教会でも、教会によって信仰の特色があるのです。そしてもちろん、どの教会の信徒も「私は聖書を信じている」と告白します。聖書はだれでも理解できるし、神の語りかけを聞くことができます。しかし私的解釈に注意しなければなりません(Ⅱペテロ1:20)、よって聖書を「神のことば」として理解するために構築された「神学」は大切です。また「神学は多様性がある」という理解も、健全な聖書信仰のために大切なのです。つまり、人は神のみ旨をすべて理解することはできません。神学は組織神学、聖書神学、歴史神学、実践神学の4つに分類されます。聖書(神学)を学び続けることは牧師の要です。しかし神学を学んだ結果どうなるのか? それは「御霊の実」が結ばれることです。これも牧師の要です。 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22,23)。

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2023年8月13日

詩篇137篇はバビロン捕囚のユダの民がバビロンの地で詠んだ詩です。「バビロンの川のほとり、そこに私たちは座り、シオンを思い出して泣いた。」(1)。彼らの頬を伝え落ちる涙はどんなに重かったことか。「私たちを苦しめる者たちが、余興に「シオンの歌を一つ歌え」と言った ~ どうして私たちが異国の地で主の歌を歌えるだろうか。」(3,4)。バビロンの住人に馬鹿にされてもグッと口の中を噛み締め、そして詩人は叫びます。「エルサレムよ、もしも私があなたを忘れてしまうなら、この右手もその巧みさを忘れるがよい。もしも私があなたを思い出さず、エルサレムを至上の喜びとしないなら、私の舌は上あごについてしまえばよい。」(5,6)。詩篇は正論ではなく感情の発露です。しかし、詩人はバビロンの川のほとりにいたからこそ、それまで以上にシオン(主の都)のことを思いました。賛美の深みを知りました。私の右手の業はエルサレムに基づいている、私の至上の喜びはエルサレムなのだ! 「主よ、思い出してください。エルサレムの日に「破壊せよ、破壊せよ。その基までも」と言ったエドムの子らを。娘、バビロンよ、荒らされるべき者よ。幸いなことよ、おまえが私たちにしたことに、仕返しする人は。幸いなことよ、おまえの幼子たちを捕らえ、岩に打ちつける人は。」(7-9)。怒りの矛先はエドムとバビロンに向きます。しかしさらにその先を見つめたはず、それはエルサレムの罪、私の罪…、そして主を仰ぎます。旧約聖書の多くはバビロン捕囚時代に編纂されたと言われています。エルサレムにいた頃にはそこまで力を注ぎませんでした。バビロン捕囚であったからこそメシヤ預言は明確になりました。頷けます。 「苦しみにあったことは、私にとって幸いでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)。 あなたは苦しみによって何を学びましたか? 苦しみよって主を知る、十字架を知る、福音を知る、そして再建へと向かいます。

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2023年8月6日

「ことりのさえずり」というミニストリーが会堂で毎月行われています。主催者は福本睦さんで、チラシの案内文にこう記されています。「子育てで疲れを感じている方、子どもを産みたいと考えているけれど、悩んでいる方、子どもについて様々な思いがある方、美味しいお茶を飲みながらお喋りしませんか? ~ 私自身が保育園で働く中、こどもたちから教えてもらった本当の気持ちや、どんな時に何をして欲しいのか、そんなことを皆さんと共有できたらいいなぁ。そう思ってお待ちしています。」私も少し覗かせてもらいましたが、会堂二階の集会室が穏やかなリビングルームのようで、いい香りの紅茶と素敵なお菓子が用意され、思わず吸い込まれそうになりました。「ことりのさえずり」というネーミングもそうですが、睦さんのセンスとおもてなしと祈りが溢れています。 始まって間もなく、ご近所の若いお母さんと赤ちゃんが参加するようになりました。その親子は毎回参加され、先回は赤ちゃんの1歳の誕生お祝いでした。その若いお母さんは睦さんとの交わりに安心と励ましを得ておられます。先日、凄いな、と思う話を聞きました。その方の結婚記念日が近づきました。すると睦さんは赤ちゃんの子守を引き受けられ、夫妻は特別なレストランに行かれたそうです。凄くありませんか、その若いご夫妻は、教会の睦さんに全幅の信頼を寄せて、1歳の赤ちゃんも睦さんと過ごすことにまったく不安を抱かないのです。これこそ「ことりのさえずり」の豊かな結実です。若い夫妻は子育てと仕事から一時離れ、教会の睦さんに感謝を抱きながら、特別な食事を楽しみ、結婚記念日をお祝いしました。実は、その若いお母さんはキリスト教にも関心があって「ことりのさえずり」を訪れたそうです。きっと睦さんと教会により、キリスト教ではなく「キリストの愛」を受けておられることでしょう。8月から「ことりのtea time」と改名し、新たにスタートします。

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2023年7月30日

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2023年7月23日

創世記3:1-7から「賢さ」について考えさせられました。蛇は「神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった」とあります。あなたにとって、憧れ、羨ましく思う「賢い人」とは誰ですか? 蛇はそのような存在だったのです。問題は、蛇は賢さを「人を自分につかせる」ために用いたことです。女を「善悪の知識の木の実」を食べるよう誘います。「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」 テレビショッピングを思い出します。このマシンであんなふうに腹筋割れるの!この化粧水でこんなに美白になるの!え、本日限り50%OFF!在庫限りで販売終了!…。兎に角、だれもが「その木は賢くしてくれそう」と思ったことはあるでしょう。男と女はその木の実を取って食べました。「こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、じぶんたちのために腰の覆いを作った。」 皮肉です。確かに賢くなりましたが、その賢さでいちじくの葉をつづり合わせ腰の覆いを作ります。 創世記3:1-7は、賢さが「腰の覆い」を作り、神からも隠れるという結末を示すのです。私たちの現実をよく表しています。少し前に、才能溢れる人気絶頂の歌舞伎役者が一家心中を図るという事件が報道されましたが、そのようなことが起こるのです。賢さの極みが原子爆弾を造りました。しかし、なお私たちは賢さを求めます。賢さは必要です。では、賢さとは何でしょう?「キリストの十字架に立ち返る」ことだと教えられます。十字架に立ち返るとき、何が見え、何が開かれるでしょう? 蛇(サタン)は、私たちが十字架に立ち返らぬよう囁きます。 「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(Ⅰコリント1:18)。  

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2023年7月16日

今年の我が家のベランダ菜園(よしやの園と呼んでいます)では、息子のリクエストもあり、メロンに挑戦しています。メロンは難しそうなイメージがありましたが、自宅でメロンが収穫できたら素敵ですよね、よって園芸店で青肉と赤肉の2種類のメロン苗を購入し、ウェブ上に数ある「メロンの作り方」から、これだというサイト(松井農園の感動メロンプロジェクト)を参考にし、作り始めました。始めて分かりましたが、そんなに難しくありません。というか今の時代、丁寧で分かりやすい動画で簡単に情報を得て学ぶことができるので、ホント凄いです、感謝です。さて、果実がだんだん大きくなって、皮にネットも発生し、メロンらしくなってきました。ワクワク感がたまりません。やっぱキュウリとは違います。 しかし、先日改めて作り方をサイトで確認していると、私は一つの工程を抜かしていることに気づきました。作り方は、立てた支柱に茎を這わせ、一つの樹から1個のメロンを収穫する「立体栽培」なのですが、選定した一つの果実に栄養を集中させるため、他の脇芽は摘み取ってしまいます。しかし、実は「遊びヅル」といって、1,2本の脇芽は残しておくべきだったのです。収穫まで樹に適度な成長点を保たせ、樹自体をバテさせないためです。どんなに果実を太らせても、収穫時前に樹自体がバテてしまったらTHE ENDなのです。なぜ、私はその工程を見逃してしまったのか、選ばれしメロンを美味しく太らせることに集中していたからです。「木を見て森を見ず」です。メロンにとどまらない大切な教訓です。幸い、1本の樹には遊びヅルが残っていて、ツルに瑞々しい葉と花をつけ、樹全体に潤いを与えています。しかしもう一方に遊びヅルは残っておらず、案の定、すべての葉が萎びてきています。収穫までもつかどうか…、こっちのメロンの方が大ぶりで期待していたのに、トホホ…。とても対照的です。メロンにも、人生にも、世界にも、「遊びヅル」は大切ですね。  

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