2023年1月29日

『せかいいちうつくしいぼくの村』という絵本を読みました。ほっこりする絵と物語、舞台は中東のパグマンという美しい村です。夏になると果物がたわわに実り、村じゅうがあまい香りにつつまれ、村の人たちは家族そろって、あんずや、すももや、さくらんぼを収穫します。小さな男の子のヤモはこの季節が一年で一番楽しくて、兄さんのハルーンと競争しながらかごいっぱいに収穫しました。しかしこの年の夏、兄さんは戦争に兵隊で行っていていません。ヤモは父さんと一緒にすももとさくらんぼを町に売りに行くことになりました。村の人たちも「おーい、ヤモ。おでかけかい。たくさん売れるといいね」と声をかけてきます。お父さんは街の広場ですももを売り、ヤモはバザールを周りながらさくらんぼを売り、食堂で遅い昼ご飯を食べました。父さんは言いました。「ヤモ、後でびっくりすることがあるよ」「え! なになに!?」 果物を全てを売り終わると、ヤモは父さんの肩の上で大きな声で歌います。「♪なんだ、なんだ?びっくりすることってなーんだ♪」 父さんは羊の市場に行き、儲けたお金を全部使って真っ白な子羊を一頭買いました。ヤモの家の初めての羊です。こんな綺麗な羊は村のだれも持っていません。「さあ、家へ帰ろう。羊を見たら、きっとみんな驚くよ」ヤモは大喜びで村へ帰りました。なつかしい匂いがします。たった一日いなかっただけなのに、とても長い旅から帰ったような気がします。「パグマンはいいな。せかいいちうつくしいぼくの村」ヤモはそっとつぶやきました。「ハルーン兄さん、早く帰っておいでよ。うちの家族が増えたんだよ」 ヤモは父さんに頼んで、白い子羊に「バハール」という名前をつけました。「春」という意味です。

私はほっこりしながら最後のページをめくりました。そこには衝撃の一文のみありました。しばし動けませんでした。絵本でこんなに衝撃を受けたことはありません。そして息子に読ませようと思いました。子どもたちに読ませたいと思いました。

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2023年1月22日

陣内先生から紹介された本『聖書とエコロジー』(リチャード・ボウカム著/いのちのことば社)は目からウロコでした。この本は

「~神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」」(創世記1:26-28)

の解釈について、改めて聖書全体から見直し、聖書の主なる関心事は「神と人」との関係のみならず、「神と人そしてその他の被造物」の三者の調和のとれた関係である、と教えます。これまで私(私たち)は上記のみことばを、人は神のかたちに創造され、全被造物を支配(管理)する役割が与えられた、しかし罪によりその役割から堕落し、被造物を自己中心的に支配、搾取するようになった、と理解してきたと思います。しかしそれは本当に聖書が教えていることだろうか? 人が全被造物を支配(管理)するなんて不遜ではないか? 今日の脅威である気候変動に、人類は悔い改めて回復と維持に取り組む必要があります。しかしだからといって、人類は未だ気候変動の全容を知りえません。その他にも被造物世界(自然界)には、私たちの知らない、おそらく決して知ることのできない多くの事柄があります。よって「人類は気候変動はじめ全被造物をコントロールする」という考えは大いなる思い上がりではないか?「ヤギが庭師としての役割を果たす以上に、私たち人類が、地球の受託者、開発者として適切だとは言えない」。では、神が人へ命じる「すべての生き物を支配せよ。」とはどのような意味なのか? その問いへの返答が本書の内容です。ぜひお読みください。たいへん示唆に富んでいます。また、改めて「神学は更新されていくもの(いよいよ奥義が明らかにされていく、しかし完全にはわかりえない)」ことを教えられました。よって、謙虚に学ぶことを怠ってはなりません。

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2023年1月15日

エレミヤ書26章20-24節に預言者ウリヤとエレミヤのことが記されています。時代はいよいよ悪い方向へ向かっています。南ユダ王国は空前の灯です。しかし王も民も分かっていません。その中で主のみことばを取り次いだのがウリヤとエレミヤでした。二人は都と地に向かって主の御名によって預言しました。するとエホヤキム王はウリヤを殺そうとします。ウリヤはエジプトに逃げますが、王の手下に捕まり剣で打ち殺されました。当然エレミヤの命も狙われます。しかしシャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、命は守られました。預言者の一人は殺され、一人は生かされた。不条理、ウリヤは無念、惨め、浮かばれない、しかしそうだろうか? 使徒パウロのことばが響きました。

「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:8)。

悪い方へ向かう時代、ウリヤは真剣にみことばに聴き、確信もってみことばを取り次ぎ、勇敢にみことばで戦って死にました。エホヤキム王の周りには王におもねる預言者たちがいましたが、ウリヤは彼らとくみしませんでした。一方、エレミヤは生かされました。ウリヤの死を受けて、いよいよ召命と使命を覚えたことでしょう。よって今日エレミヤ書があります。 時に時代は悪くなります。その中でキリスト者はどう生きるのか? エレミヤの命がアヒカムによって守られたように、私たちの命も守られています。生きているのではなく、生かされています。私たち教会は主のものです。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」との告白が湧き上がるほどに、主のあわれみと恵みと希望を知らされる私たちです。私は牧師として何に最も力を注ぐのか? 主のみ旨を真剣に求め、悪い時代に屈することも、おもねることなく、みことばを取り次ぎ、みことばに生きたウリヤとエレミヤが迫ってきました。

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2023年1月8日

昨年12月初め、江渕先生とデボーション・ハイキングに行ってきました。私は山が好きなのですが、登山はデボーション(神と自分との対話)に最適です。なんてったって被造物の恵みと厳かさを全身全霊に浴びて、山あり谷ありの山行が人生そのもですから。ヨーロッパの巡礼や四国遍路の旅がよく分かります。なので、教会で催せたらと予行をしました。コースは飯能駅を起点、終点とする、天覧山、多峯主山、吾妻峡の全8.7㎞。美しい里山と渓谷を巡る、スニーカーでも歩ける穏やかなコースです。先ずは全身に浴びて、見つめ、思い巡らし、多峯主山頂上で弁当を食べながら分かち合いました。

そして会話も楽しみながら山を下り、吾妻峡の岩に腰かけてみことばに聴きました。詩篇121篇(都上りの歌)です。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは どこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」(1,2)。山を巡った後なので「天地を造られたお方」が豊かに響いてきます。あの木漏れ日と動植物が織りなす言葉では表現できない美しさ、厳かさ、寛容で綿密、雄大で繊細、「私」を超越しています。何か望郷の念にもかられます。清流の岩の上にはお腹が黄色い小鳥(キセキレイ)が歌っています。私の助けは、「この天地を造られた主」から来るのです! また久しぶりに山を歩くとやはり20代の頃とは違います。「何でこんな所でよろけてしまうのだ…」 しかし、みことばの語りかけに感動します。「主は あなたの足をよろけさせず あなたを守る方は まどろむこともない。」(3)。なんと心強いことでしょう。主はなぜ私を守られるのか?「見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない。」(4)。「イスラエル」だからです。神の子、主が贖いのご計画を置かれた契約の民、祭司なる王国だから! 私は使命と勇気に満たされました。詩篇の筆者は山々や荒野を旅しながら詩を詠みました。聖書は被造物のただ中で読んだら良い。デボーション・ハイキング、お勧めです。

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2023年1月1日

詩篇全150篇の導入として特別に作られたと言われる詩篇1篇は、「幸いなことよ。」(なんて幸せなのだろう!)と始まります。「悪しき道に立たず 嘲る者の座に着かない人。【主】のおしえを喜びとし 昼も夜も その教えを口ずさむ人。その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」 そして最後には「最も幸いなこと」を見つけます。「まことに 正しい者の道は【主】が知っておられ 悪しき者の道は滅び去る。」(6) 最も幸いなことは、私の道が主に知られていること!私がすることでなく、主がなさっていること! 詩篇139篇でダビデも厳かに主を賛美しています。「【主】よ あなたは私を探り 知っておられます。あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知り抜いておられます。ことばが私の舌にのぼる前に なんと【主】よ あなたはそのすべてを知っておられます。あなたは前からうしろから私を取り囲み 御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議 あまりにも高くて及びもつきません。」(1-6)。私は主に知られている!この特別な恵みが詩篇の根幹です。人生の旅路で紡がれる詩篇全150篇はここから始まり、ここに戻り、ここから立ち上がり、ここに至るのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」(ヨハネ15:16)。

あなたは神の子とされました。主がアブラハムに「あなたを祝福し、あなたを祝福とする」と告げられた約束があなたに継承されています。主は約束を反故になさいません。そのしるしが主イエスの十字架と復活です。新年を迎えました。先ず「私がすること」ではなく「主がなさっていること」に目を留めようではありませんか。幸いなことよ!と主を賛美しつつ、新たに詩篇1篇を歩み出して行こうではありませんか。

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2022年12月25日

妻が名医について熱く語っていました。先ずは練馬駅前にある耳鼻咽喉科の名医です。花粉症が酷くなった妻は早朝予約に行くと、玄関に「昨日午前2時まで診察があったので、開始時間を1時間遅らせ10時とさせていただきます」と貼紙がありました。やがて妻の診察となり先生に貼紙のことを話すと「花粉症で苦しんで他県からもここまで駆けつけて来たのに、診察をしなかったら可哀そうでしょ」と、孫をおもんぱかるような言い方だったそうです。もちろん診断と処方は驚くばかりに的確です。

次は椎名町の魚の骨、異物取りの名医です。数年前、妻の喉に海老のヒゲが刺さりました。近所の二軒の病院で取れず、あまりに痛いので、ネットで調べた新宿の緊急外来に行きましたが、最新スコープ完備が売りなのにヒゲを見つけることができません。しかし妻は指で触れると言うと、「汚い手で触らないでください」と怒られ、ここでは無理だと後にしました。そして椎名町の耳鼻科を思い出したのです。女医さんで、指で触れることを伝えると、「触れるの!だったら絶対に取れます!」と言って、最新スコープなんてありません、鏡とピンセットを使ってとうとうヒゲを抜き取りました。海老の鋭い赤い破片です。妻はあまりの嬉しさに破片を手に待合室に行き、「皆さん、ここの先生がこの棘を取ってくれました。ここの先生は名医です!」と感嘆の声を挙げると、拍手が起こりました。

最後は神田小川町の靴のインソール作り名人です。妻は足裏が痛くなり、歩けなくなるほどの痛みとなり、ネットでスキーなどスポーツ靴のインソール専門店を探し当てました。オリンピック選手などアスリートが頼ってくる店です。店長さんはとても腰が低くて丁寧で、綿密に足を調べ、的確なインソールを作ってくれました。それ以降、妻の足の痛みは解消し、歩き方まで変わりました。以上、皆さんも名医の共通点がお判りかと思います。私もかくありたいです。クリスマスに、名医のことが響いてきました。

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2022年12月18日

ヨシヤ王といったら南ユダ王国の宗教改革を行った善王です。Ⅱ列王記22章にはその布石が記されています。ヨシヤは8歳で王となりました。将来善王になるか、悪王になるか紙一重です。だってポケモンにハマっている私の息子と同じ歳ですから。当然、側近たちはヨシヤを善王とするために心血を注いで育てたでしょう。「彼(ヨシヤ)は主の目にかなうことを行い、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。」(2)。側近たちは「厳しく律法的に」ではなく、「主の目にかなうことを行うことの幸い」を自ら示し、その魅力を味合わせながらヨシヤを養育したのでしょう。そしてヨシヤ26歳の時、これまでなおざりにされていた神殿の改修工事に取りかかりました。ヨシヤは忠実に工事を進める職人たちに経費精算を免除します(6,7)。ヨシヤが築いた職人たちとの信頼関係がうかがわれます。そして遂に、神殿の奥でほこりをかぶった律法の書を発見するのです。祭司ヒルキヤは、運び出された律法の書をヨシヤの前で読み上げます。すると聞き終えたヨシヤは自分の衣を引き裂き、ヒルキヤはじめ側近たちに「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。~」(13)と命じました。ここからヨシヤ王の宗教改革は始まりました。

心に留まったのは、宗教改革は、なおざりにされていた神殿の改修工事から始まったということです。ここにヨシヤの信仰と品性も見て取れます。歴代の王たちも自分の王宮は綺麗にしたでしょう。しかし神殿の修復は二の次でした。私はこのことが朝のデボーションで教えられ、丁度11月の会堂大掃除の前だったので、思いを新たに、そのモチベーションとなりました。神のわざは掃除から!しかも自分の家だけではなく、見て見ぬふりをしてしまう、なおざりにされたいたところの掃除から!「私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。」

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2022年12月11日

Ⅱ列王記18章から「信仰継承」について考えました。ヒゼキヤ王の信仰が記されています。「彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおり、主の目にかなうことを行った。」(3)、ヒゼキヤは一つひとつの案件に対して主の目にかなうことを熟慮しました。「彼はイスラエルの神、主に信頼していた」(4)、ヒゼキヤは熟慮するだけでなく主に委ねました。「彼は主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。」(6)、ヒゼキヤはみことばを熱心に学び、聞き従いました。なんとバランスの取れた信仰でしょう。その信仰は政治にも表れます。ヒゼキヤは野放しになっていた高き所と石の柱(偶像)を取り除き、モーセが作ったあの青銅の蛇をも砕きます。変革のメスを聖域にまで入れたということです。また時の覇者アッシリアの王にもくみせず、ペリシテを討って領土を広げます。このようなヒゼキヤの信仰は如何にして培われたのか? 2節に「彼の母の名はアビといい、」と母の名が特別に記されています。やはり母の信仰の影響は大きいのでしょう。しかし5節には「彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。」と、信仰継承は簡単ではないことが見受けられます。確かに、聖書を読むとイスラエルの王たちの信仰継承は継ぎはぎだらけです。敬虔な親であったとしても子にその信仰が継承されるとは限りません。ではヒゼキヤの信仰はどこから来たのでしょう? 私は「信仰も神からの召しである」と教えられました。母の祈りがあります。他にも様々な要因があったことでしょう。しかしヒゼキヤの信仰は母から継承したのではなく、主から与えられ、ヒゼキヤは受け取ったのです。そして主の召しにふさわしく歩むことに努めたのです。私たちは先代の信仰者に感謝し、模範としつつ、しかし次のみことばが響いてきます。

「あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。」(エペソ4:1)。

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2022年12月4日

救い主誕生の預言は次のみことばから始まります。

「しかし、苦しみのあったところに闇なくなる。」(イザヤ9:1)。

ここから教えられるのは「苦しみ」よりも「闇」の方が深刻であるということです。闇は苦しみを生み出しますが、苦しくとも闇がないことがあります。光があれば何とかなるのです。そして救い主は「光」です。救い主の光はどこに輝くのでしょう?「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」(1,2)。異邦人の民ガリラヤです。闇の中を歩み、死の陰の地に住む「片隅の民」の上に。そうです、私たちの上に救い主の光は輝きました。預言は続きます。「あなた(主)はその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。」(3b-5)。主はご自身の国民を増やし、その喜びを増し加えられます。出エジプトの恵みが回顧されています。あの勝利の喜びが私たちのうちに増し加えられると!25日のクリスマス礼拝では3名の方が洗礼を受けられますが(12/4日現在)、この喜びです。私たち教会はここに歩んでいくのです。

以前、香港のベン・ウォン師がNGCの礼拝で言いました。「光が光の中で輝いても意味がない。闇の中で輝いてこそ意味がある。闇の中に出て行きなさい。あなたがたは世の光です。」 「苦しみ」よりも「闇」の方が深刻です。「闇」は「光」によってのみ取り除かれます。私たち教会は「救い主の光」を分かち合っていきましょう。

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2022年11月27日

コロナ禍により始まったオンライン礼拝はすっかり定着しました。「災い転じて福をなす」ではありませんが、オンライン礼拝は、Zoom会議同様、教会の画期的なあり方となりました。しかしオンライン礼拝が始まってしてしばらく経った頃、諸教会の牧師たちの口から出てきた心配は「このまま会堂に集まらなくなるのでは」というものでした。NGCの役員会でも同様の心配が挙がりました。ただ、集えなくなったからこそ、集えることの恵み、集うことの大切さを改めて教えられたのも事実です。とはいえ、先日ある方がこう言われました。「オンライン礼拝に甘んじて会堂に行かなくなってしまった。足腰が弱って億劫になったこともあるが、オンライン礼拝がなければ、以前のように普通に歩いて行くと思うのだが。」 正直な思いです。

これに関連して、最近私は「死」について思い巡らす機会がありました。もし死がなかったなら、生きることをそこまで考えていただろうか? たとえば、受験生であれば、受験までの期間を必死になって勉強します。牧師であれば、礼拝説教のために必死になってみことばに取り組みます。私たちは「終わり」や「しばり」があるからこそ、今を生き生きと歩め、大切なことを学び、身に着けることができます。「生」は「死」によって意味が与えられています。逆説の論理です。礼拝についても同じことが言えるのではないでしょうか。さて、役員会では、コロナ禍が終息したら(インフルエンザレベル)、これまでの礼拝CDやDVDの送付と同様、礼拝に集うことのできない方々(申請者)にオンライン礼拝URLを送信するという方向性を検討しています。言うまでもなく、礼拝は共同体の営みであり、一堂に会することが原則ですから。

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」(へブル10:25)。

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