No.102 10月1日

「この川が入る所では、すべてのものが生きる」(エゼキエル47:9)これは旧約聖書のみことばですが、新約の時代、つまり「終わりの時代」に対する主なる神のビジョンです。私たちNGCは、この主のビジョンを私たちのビジョンとして今歩んでいます。「この川」とは罪と死の力を打ち破られたイエス・キリストの十字架と復活から流れ出る助け主、聖霊です。そして聖霊によって歩む私たち教会であり、あなたのことです。私たちはこの主のみことばに信頼し希望を置きます。では、どうしたら「いのちの川」は流れ出るのでしょう。私は、聖書から、またこれまでの経験から、

①主との個人的な関係 ②主の愛で互いに愛し合う小さな共同体関係 ③皆で主を礼拝
し、共に教会を建て上げる関係

から「いのちの川」は流れ出ると確信しています。一人ひとりがこの3つの関係に歩んでいく中で、いのちの川は豊かに流れていきます。で、10/7(土)、8(日)の『霊修会』にも、この3つの関係の要素を新たに入れました。霊修会では、一人でみことばから主の御声を聞いていく時間を持ちます。その後、聞いた御声を小グループで分かち合っていきます。また、一堂に会して全員で主を賛美し祈る時間を持ちます。このようなサイクルを二日間で三巡しながら、主との交わりを深めていきたいと思います。また、今回は「コロサイ人への手紙」(全4章)を共通のテキストとしました。以上、今回このような「水路」を作りました。皆さん、奮ってご参加ください。初めての方も大歓迎です。神さまに期待していきましょう。

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No.101 9月24日

使徒27章、使徒パウロが囚人としてローマに護送されている途中、ユーラクロンという暴風に出くわし船が難破しかけた時のことです。「太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。だれも長いこと食事をとらなかったが、そのときパウロが彼らの中に立って、こう言った。

「皆さん。あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出発しなかったら、こんな危害や損失をこうむらなくて済んだのです。しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。」(20-22)

航海についてド素人のパウロが、専門家の船主も水夫も皆が絶望している時に、尚、「元気を出しなさい」と言っていることが心に留まります。私たちは「この世に仕えていくキリスト者」ですが、これほど強力な「仕え方」はありません。他の人より余計に犠牲を払ったとか奉仕したとか、そんな小さなことではありません。皆が、もう何の望みもなくした時に、尚、望みある言葉を語ったのです。しかし、これこそ、私たちキリスト者に与えられている今日の証ではないでしょうか。本当に希望がない、だから目先の事だけで一生懸命になっている、そういう時こそパウロが言ったような言葉が語れなければなりません。なぜ、パウロはそうあれたのでしょう。23-25節がその答えです。

「昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あんたたにお与えになったのです。』ですから、皆さん。元気を出しなさい。」 

パウロは、主のおことばを「聞いた」から語れました。10/7日(土)8日(日)の「霊修会」は「聞く集会」です。奮ってご参加ください。私たちは、主のみことばを聞いて「この世に仕えていくキリスト者」でありましょう。

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No.100 9月17日

来る10月7日(土)8日(日)は「霊修会」です。霊修会とは「聞く集会」です。ペテロとヨハネは、彼らを脅してくる有力者たちを前にしてこう言いました。

「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(使徒4:19,20)

なんと確信に満ちた姿でしょう。彼らに「世的な力」はありませんでしたが「神の力」がありました。なぜでしょう。それは、権威ある者からのことばを聞いていたからです。神のことばを聞いたなら、私たちはどんな力に対してもそれに向かって行くことができるのです。「霊修会」とはそのような集会です。

先日私は早天祈祷会にて、今回の霊修会に向かうところの神の語りかけを聞きました。Ⅱ歴代誌32:1-8、アッシリヤの王セナケリブがユダ王国に攻めて来ました。するとヒゼキヤ王は、それをしっかりと見て、つかさや勇士たちと相談し、「アッシリヤの王たちに、攻め入らせ、豊富な水を見つけさせてたまるものか。」と、城壁を建て直し、武具を備えました。そしてヒゼキヤと民は神のことばによって奮い立ちました。いつの時代も攻撃はあるものです。今の時代の教会への攻撃とはどのようなものでしょう。私たちは、ヒゼキヤのようにそれを「しっかり見る」必要があります。そしてともに城壁を築き、武具を身に着け、神のことばに奮い立ちたいと願います。いよいよ新会堂建築が着工し、約一年間会堂のない「仮住まい」が始まります。その前に、私たちは「霊修会」で備えてまいりましょう。私たちNGCの2017年度テーマは「新会堂建築をとおして、私たちキリストのからだも建て上げられる」です。

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No.99 9月10日

来る10月7日(土)8日(日)「霊修会」です。霊修会とは「聞く集会」です。ペテロとヨハネは、彼らを脅してくる有力者たちを前にしてこう言いました。

「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(使徒4:19,20)

なんと確信に満ちた姿でしょう。彼らに「世的な力」はありませんでしたが「神の力」がありました。なぜでしょう。それは、権威ある者からのことばを聞いていたからです。神のことばを聞いたなら、私たちはどんな力に対してもそれに向かって行くことができるのです。「霊修会」とはそのような集会です。

先日私は早天祈祷会にて、今回の霊修会に向かうところの神の語りかけを聞きました。Ⅱ歴代誌32:1-8、アッシリヤの王セナケリブがユダ王国に攻めて来ました。するとヒゼキヤ王は、それをしっかりと見て、つかさや勇士たちと相談し、「アッシリヤの王たちに、攻め入らせ、豊富な水を見つけさせてたまるものか。」と、城壁を建て直し、武具を備えました。そしてヒゼキヤと民は神のことばによって奮い立ちました。いつの時代も攻撃はあるものです。今の時代の教会への攻撃とはどのようなものでしょう。私たちは、ヒゼキヤのようにそれを「しっかり見る」必要があります。そしてともに城壁を築き、武具を身に着け、神のことばに奮い立ちたいと願います。いよいよ新会堂建築が着工し、約一年間会堂のない「仮住まい」が始まります。その前に、私たちは「霊修会」で備えてまいりましょう。私たちNGCの2017年度テーマは「新会堂建築をとおして、私たちキリストのからだも建て上げられる」です。

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No.99 9月3日

今回は私の友人の話にお付き合いください。名前は鈴木光利と言います。「みっこちゃん(友人)」と「よこちゃん(私)」の間柄です。みっこちゃんとは、22歳の時、通っていた帯広の教会で出会いました。私は埼玉から憧れて北海道に来ていましたが、彼も同じ動機で山形から来ていました。他にも、同世代、牧場で働いた、そしてクリスチャンと、幾つもの共通点に私たちは感動し、意気投合しました。すると、みっこちゃんは私が住んでいたアパートの隣部屋に引っ越して来て、それから、平日はそれぞれ土建屋さんで働き、日曜日は朝から晩まで教会で奉仕をするという生活が始まりました。一年後には、私は牧師を志して千葉に引っ越すのですが、みっこちゃんと過ごしたその一年間は、最高に楽しく、まさに“いのちほとばしる”一年でした。

その後、みっこちゃんは「敏子さん」と結婚し、夫婦で『十勝プレイズカンパニー』を立ち上げ、シンガーソングライターとして音楽伝道に邁進しました。彼の歌は、ギター一本でシャウト(叫び)系、歌詞は前向きストレート、そしてMCに笑いが絶えません。この夏休みもみっこちゃん夫妻に会ってきました。今は札幌の隣の江別に住んでいて、毎回会う度に新曲を聴くのが楽しみとなっています。今回は『先生』というタイトルの、幼稚園から高校までみっこちゃんの全ての担任の先生から学んだことを歌詞にした曲を歌ってくれました。我が息子が踊りだす程の楽しい曲です。よくぞまあ全ての担任を覚えているものです。

9月には札幌で『十勝プレイズカンパニー』20周年コンサートを開催するとのこと。あれから20年が経ったのです。友の歌をみんなで聴きながら、互いの20年を感慨深く思いながら、「感謝だな~」と幸いなひと時でした。
※みっこちゃんは最近、YouTubeに曲をアップし始めました。「十勝プレイズカンパニー」で検索できます。良かったらお聴きください。

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No.98 8月27日

夏休みをいただいて家族で北海道に来ています。ここ数年の夏休みの恒例は、北海道の東、摩周湖の麓の奥本常在&希夫妻を訪れることです。奥本夫妻は3年程前にクリスチャンの方が経営する『川湯ビレッジ』という施設に遣わされた敬愛するNGCメンバーです。今年も雄大で美しい被造物を満喫しながら、幸いなひと時をともに過ごすことができました。私たちは一年に一度会うので、互いの一年間を垣間見ることができます。今回、私にとって印象深かったのは、のんちゃん(希さん)でした。何事も新しいことを始めるということは順応するまで時間を要するものです。また、必ずと言ってよいほど「想定外」に出くわします。奥本夫妻も例外ではありませんでした。しかし今回、特にのんちゃんは、まるで脱皮した蝶のような、そして、ひまわりのようなあの笑顔がありました。私たちはお茶を飲みながら興味深く一年間の歩みを伺いました。その歩は、まさに死と復活でした。そこには神の配材としか言いようがない不思議なキリストのからだ(教会共同体)によるケアと支えがありました。状況にさほどの変化はなくとも、内面が変えられているのんちゃんがいました。「神さまを信頼しているから」とののんちゃんの言葉は「火で精錬された金」でした。私は、エレミヤを預言者として召した時の神のみことばを思い起こしました。

「見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」(エレミヤ1:10)

私も実体験する者ですが、神は召した者を「通りよき管」とされるのです。沖縄出身ののんちゃん、今やしばれる冬が待ち遠しいとのこと。近い将来、川湯ビレッジでNGCリトリートができたらな~と、奥本夫妻とともに思いを馳せました。

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No.97 8月20日

『イエス、マジぱねぇ』とテーマを掲げた今年の餃子キャンプ(教団の中高生キャンプ)は、恵み溢れる4日間でした。キャンプは一言で言って「いのちの躍動」です。キャンパーの中高生たち、半年前から準備してきたプログラムスタッフ、みことばを取り次ぐ講師、キャンパーと濃密に過ごすカウンセラー、そして裏方で支えるキッチンスタッフやグランドワーカー、全参加者は、主イエスとそのみことばによって一つ共同体になります。そこには笑顔と涙、感動と葛藤、喜びと恐れ、挑戦と決心があります。まさに、いのち躍動する日々です。だから皆は毎年ここに集まって来るのでしょう。今年のキャンプも様々ないのちのドラマがあり、神の御業を見ました。当然ここでは書ききれません。どうぞ来年ご参加ください。ただ、ひとつ、今回のキャンプで私が受け取ったことをここに記します。

『イエス、マジぱねぇ』とは「本当に半端ない主イエス」との意味ですが、私たちクリスチャンは、主イエスの「ぱねぇ愛」を知った者です。そして、その主イエスに応答して人生を歩んでいきたいと願う者です。で、この「ぱねぇ」生き方とは、やはり「基本に忠実」から生まれてくるものなのです。芯のある生き方こそ「ぱねぇ」生き様なのです。その基本とは何でしょう。それは言うまでもなく、礼拝を守ること、日々のディボーション、そして伝道することの3つです。その中心にあるのは、神を第一とする生き方です。いのちの躍動、いのちのドラマ、神の御業はここから生まれるのです。今回のキャンプで、私は改めてこの基本に忠実、かつ厳しくあることの大切さを教えられました。そして、このことを胸に、来年のキャンプを目指して歩んでいきたいと思います。基本に忠実であることを互いに支え合う教会でありたいです。

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No.96 8月13日

「ホームスクーリング」「チャーチスクール」という言葉を聞いたことがあるかと思います。それは文字通り、子どもを既存の学校に通わせるのではなく、家庭、または教会が運営する学校で教育していくという取り組みのことです。これはアメリカから始まった運動なのですが、日本のキリスト教界の中でもだいぶ“おなじみ”となりました。確かに、聖書を基盤とし、聖書の価値観で教育していけるのは理想的です。私の幾人かの友人もホームスクーリングをしていて、その様子を見て素晴らしいと思っています。「我が子にも、」と考えたこともあります。もし導かれるなら、練馬グレースでもチャーチスクールが開かれれば良いとも思います。

しかし、私はこれらのことに対して、決定的に腑に落ちたことがありました。以前、ある牧師先生とお話しをしていたとき、なぜアメリカでホームスクーリングが始まったのか? その経緯を教わりました。それは「父親の子育てへの参加」でした。この聖書の標準への回復を目指して始まったのがホームスクーリングなのだと。私はとても納得しました。そして焦点が定まりました。つまり、既存の学校であろうが、ホームスクーリングやチャーチスクールであろうが、あまり関係ないのです。言い換えるなら、たとえ聖書を基盤とした万全なカリキュラムの教育の場があろうとも、大事なことが大事にされていなかったら、そんなに意味がないのです。

「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6:4)。

練馬グレースチャペルの父たちよ。霊の父たちよ。立ち上がり手を取り合いましょう。次世代の教育は私たちの責任とリーダーシップがかかせないのです。

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No.95 8月6日

イエスさまが育った環境はどのようなものであったのでしょう?
この問い、以外に盲点です。そういえば、どうだったのだろう? 10年程前、私は「ビジョンカンファレンス」という集会でこのことを興味深く学びました。

 当時のユダヤはローマの支配下にありました。つまりローマ帝国の植民地です。イエスさまが育った町は、そう、「ナザレ」です。そこにはローマ軍の駐屯地がありました。街の様子がうかがえ知れます。風紀は乱れていました。環境面、政治面において決して良いとは言えません。では経済面はどうでしょう? ご存知、父ヨセフは大工でした。決して裕福ではありません。ただ、社会に貢献する意義のある仕事ではありました。教育面はどうでしょう? イエスさまは大学に行ったでしょうか?博士号を取得したでしょうか?大工の息子として最低限度の教育しか受けられませんでした。またイエスさまは、ヨセフとマリヤがまだ結婚していないときに与えられた子どもです。当時、結婚前の妊娠は死刑に値しました。真実を知らない周囲の人々は、イエスさまの家庭を白い目で見ることもあったでしょう。しかし、その家庭には愛がありました。両親はともに敬虔な信仰者です。イエスさまは家族とともにシナゴーグ(ユダヤ人が集って聖書を読み,礼拝をささげる会堂)にも通い、聖書のみことばに精通していました。これが、イエスさまが育った環境でした。近代社会が成長のために必要としているものはあまりないようです。東京は自然もないし子育て環境には良くないとの声も聞いたりしますが、それもあまり関係ないようです。みことばに触れる愛のある家庭があれば大丈夫なのですね。

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No.94 7月30日

 近頃、「legacy(レガシー)」という言葉をよく耳にします。「遺産」という意味ですが、私は、先週の礼拝メッセージの例話で、内村鑑三著『後世への最大遺物』(明治27年箱根「キリスト教徒夏季学校」での講演を書き起こした本)の一節を紹介しました。

 先週メディアで持ち切りだったのは、いわゆる「加計ありき?」の集中審議でした。私は、首相はじめ当事者たちの不審を募らせるをえない答弁を聞きながら、内村鑑三が切々と語った「後世への最大遺産」が、再び心に響いてきました。「後世への遺産、それはお金、事業、文学(思想)、教育等が挙げられるが、それらはそれぞれの才能にも起因し、すべての人が残せるものではない、では、だれもが残すことができる後世への最大遺物とは何なのか?それは勇ましい高尚な生涯である」。価値ある本よりも、その本を書した著者の生き様、生涯に価値がある、残した事業よりも、その事業をした人の思想や生き様に価値があると。私は、集中審議の様子を見ながら自問しました。私の生き様はどうであろうか?と。内村鑑三はこうも述べています。「己の信じることを実行する者が真面目なる信者です。ただただ壮言大語することは誰にもできます。いくら神学を研究しても、いくら哲学書を読みても、われわれの信じた主義を真面目に実行するところの精神がありませぬあいだは、神はわれわれにとって異邦人であります。~もしわれわれが正義はついに勝つものにして不義はついに負けるものであるということを世間に発表するものであるならば、そのとおりにわれわれは実行しなければならない、これを称して真面目なる信者と申すのです」。私もかくありたいと思わされます。そう、『砂漠に川を、オアシスを』(NGCビジョンモットー)「この川が入る所では、すべてのものが生きる」(エゼキエル47:9)を信じて。

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