No.95 8月6日

イエスさまが育った環境はどのようなものであったのでしょう?
この問い、以外に盲点です。そういえば、どうだったのだろう? 10年程前、私は「ビジョンカンファレンス」という集会でこのことを興味深く学びました。

 当時のユダヤはローマの支配下にありました。つまりローマ帝国の植民地です。イエスさまが育った町は、そう、「ナザレ」です。そこにはローマ軍の駐屯地がありました。街の様子がうかがえ知れます。風紀は乱れていました。環境面、政治面において決して良いとは言えません。では経済面はどうでしょう? ご存知、父ヨセフは大工でした。決して裕福ではありません。ただ、社会に貢献する意義のある仕事ではありました。教育面はどうでしょう? イエスさまは大学に行ったでしょうか?博士号を取得したでしょうか?大工の息子として最低限度の教育しか受けられませんでした。またイエスさまは、ヨセフとマリヤがまだ結婚していないときに与えられた子どもです。当時、結婚前の妊娠は死刑に値しました。真実を知らない周囲の人々は、イエスさまの家庭を白い目で見ることもあったでしょう。しかし、その家庭には愛がありました。両親はともに敬虔な信仰者です。イエスさまは家族とともにシナゴーグ(ユダヤ人が集って聖書を読み,礼拝をささげる会堂)にも通い、聖書のみことばに精通していました。これが、イエスさまが育った環境でした。近代社会が成長のために必要としているものはあまりないようです。東京は自然もないし子育て環境には良くないとの声も聞いたりしますが、それもあまり関係ないようです。みことばに触れる愛のある家庭があれば大丈夫なのですね。

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No.94 7月30日

 近頃、「legacy(レガシー)」という言葉をよく耳にします。「遺産」という意味ですが、私は、先週の礼拝メッセージの例話で、内村鑑三著『後世への最大遺物』(明治27年箱根「キリスト教徒夏季学校」での講演を書き起こした本)の一節を紹介しました。

 先週メディアで持ち切りだったのは、いわゆる「加計ありき?」の集中審議でした。私は、首相はじめ当事者たちの不審を募らせるをえない答弁を聞きながら、内村鑑三が切々と語った「後世への最大遺産」が、再び心に響いてきました。「後世への遺産、それはお金、事業、文学(思想)、教育等が挙げられるが、それらはそれぞれの才能にも起因し、すべての人が残せるものではない、では、だれもが残すことができる後世への最大遺物とは何なのか?それは勇ましい高尚な生涯である」。価値ある本よりも、その本を書した著者の生き様、生涯に価値がある、残した事業よりも、その事業をした人の思想や生き様に価値があると。私は、集中審議の様子を見ながら自問しました。私の生き様はどうであろうか?と。内村鑑三はこうも述べています。「己の信じることを実行する者が真面目なる信者です。ただただ壮言大語することは誰にもできます。いくら神学を研究しても、いくら哲学書を読みても、われわれの信じた主義を真面目に実行するところの精神がありませぬあいだは、神はわれわれにとって異邦人であります。~もしわれわれが正義はついに勝つものにして不義はついに負けるものであるということを世間に発表するものであるならば、そのとおりにわれわれは実行しなければならない、これを称して真面目なる信者と申すのです」。私もかくありたいと思わされます。そう、『砂漠に川を、オアシスを』(NGCビジョンモットー)「この川が入る所では、すべてのものが生きる」(エゼキエル47:9)を信じて。

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No.93 7月23日

 先日フレンズ・キッズ(教会の子どもクラス)の保護者会があり私も参加しました。様々な意見交換がなされ有意義なひと時でしたが、会が終わった後、私は色々と考えさせられました。私たちは、今、何を目指しているのか?と。その後、私は、分かち合ったり熟慮したりする中で、これまでの歩みにおいて学び受け取ってきた「確信」を、改めて確認させられました。いや、すっぽりと頭から抜けてしまっていたのを「ハッ!」と思い起こしたというのが正確なところです。それは、端的に言うと「子どもへの信仰継承は親がする」ということです。次世代に生き生きと信仰が継承されていくことは私たちの大切な課題であり祈りです。そして、それを妨げる大きな罠が、子どもの信仰の養いを教会学校に任せてしまうということなのです。つまり、日々の日常の中で、親と子で一緒に神さまに祈ったりディボーションしたり、生きて働かれる神さまの恵みや体験を分かち合ったりすることはままならず、それは日曜日の教会学校にお任せ…、それでは駄目なのです。聖書は、子どもの教育の責任者は親(特に父親)だと教えます。学校ではありません。「子どもへの信仰継承は親がする」そして、そのことを互いに支え合う共同体が「フレンズ・キッズ」です。私たちはこれを中軸とし、協力し、その文化を築いていきたいと思うのです。そして、第二、第三のダニエル(14歳にして捕囚の地バビロンにあって、堅く信仰に立ち、その国の王と民に良き影響を与えていった人物)を、教会の皆で育てていきたいと願うのです。

 今、フレンズ・キッズのスタッフの方々が、平日に親子で一緒にできるディボーションノートを作ってくれていますが、その制作に親御さんたちも参加していき、子どもたちから「あ!今週のディボーション僕のお父さん(お母さん)が作ったやつだ!」と声が上がるような光景を近い将来見たいと思います。

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No.92 7月16日

先週の礼拝メッセージで開いたみことば

「ですから、私たちは(主イエス)から聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」(へブル2:1)

が、なお心に響いています。あなたは今、何から押し流されないようにしていますか? 私たちは、押し流されないよう踏ん張ることと力を抜いてよいこと、握るべきことと手離してよいこととを、落ち着いて見極めていくのです。

 先日TVで、15歳で自家焙煎したコーヒー豆を販売する「HORIZON LABO(ホライズン・ラボ)」という店をオープンさせた岩野響さんを特集していました。響さんは発達障害の一つであるアスペルガー症候群で、学校で出来ないことの多さに直面し、中学一年の時不登校になりました。そんな時に両親の勧めで「できること」を探し始めます。そして、知人から手回しの焙煎機をもらったことを契機にどんどんコーヒーにのめり込み、ついには高校に進学しないことを選択し、今年の4月開店となりました。響さんは物心ついた頃から、同じ調味料でもメーカーの違いが分かるほど優れた味覚と嗅覚の持ち主で、これも武器となり、響さんが作るコーヒー豆は売り切れ必至だそうです。響さんの店にはキャッチコピーがあります。『ぼくのできることから/ぼくにしかできないことへ』 このように響さんを支えるご両親も凄いなと思いました。

 私は今、何に押し流されないようにしているだろうか?聖書は「主イエスから聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、」と教えます。様々なものが押し寄せる日常において、しばしそこから退き、その「語りかけ」を聴き、確かめるひと時を大切にしたいと思います。番組の最後、記者は響さんに質問しました「自分のことが好きですか?」、響さん、「好きですね~」とはにかんでいました。福音(よきおとずれ)でした。

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No.91 7月9日

 「このハゲーーーっ!」「バカかお前はーー!」と言いえば、そう、最近メディアを騒がせている某国会議員が秘書に浴びせた暴言です。メディアをとおしてその録音音声を聞いた方も多いのではないでしょうか。まあ暴言です。The暴言。しかし私は、TVを観ていてコメンテーターたちのコメントにちょっと首をかしげました。彼らは一様に「考えられない!」と目を丸くしてその国会議員を責め、いつものようにあれこれ評論していました。私は、ひとりぐらい「その議員の問題や弱さは他人事でない」というようなコメントがあってもよさそうなものだと思ったのです。彼らの中に、程度は違ったとしても、自分にも同様の弱さや問題があると自覚する人はいないのでしょうか。それともただ言わないだけでしょうか。

その議員を擁護するのではありませんが、私は他人事でないなと思いました。議員と雇われ秘書の上下関係。ある程度期間が過ぎると議員も秘書に気を使わなくなるでしょう。またその秘書は結構大きな失敗を繰り返していたとこのこと。そして密室。そのときの議員が切羽詰まっていたら、そして、その議員の内面にある“苦い根”の問題…、暴言を吐くのもあながちでないと思いました。

先日、ある牧師の集まりで、ひとりの婦人牧師が言いました。「私は、以前、夫に対してあの○○議員と同じでした。」私もよく知っている牧師夫妻なので、言われてみれば、と思い、しかし、確かにそこから変えられたのです。私は、改めて、人は変われるんだ、神は変えてくださるんだと感動し、またそのように告白される先生は凄いと思いました。そして改めて思います。私は「コメンテーター」(評論家)でなく「牧師」でありたいと。

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No.90 7月2日

最近の私の変化で、静かに実感していることがあります。それは、「焦る」ことが少なくなったことです。振り返ると、これまで私は、特に主任牧師になってからでしょうか、よく焦っていました。私は、周りの牧師(同労者)や教会からも大いに刺激を受け、学び、模範にしようとしてきました。もちろんそれらは有益であり恵みでした。しかし、その余韻として私の感情には「焦り」が生じて来ました。その「焦り」を別の言葉で表するなら、それは創世記11章でバベルの塔を築こうとしている者たちの言葉「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」と同じです。彼らの「名をあげよう」の裏にも「散らされるといけないから」と、焦りがありました。これは、まさに私の心です。しかし「焦り」が少なくなりました。その理由もはっきりわかります。それは、3年程前に教会の近くに引っ越して来てから、早天祈祷会に参加するようになってからです。初めに一曲賛美してともに祈り、みことば(ディボーション誌『マナ』の個所)を輪読し、約15分各自で静聴し、教えられたことを分かち合い、お祈りをして終わります。みことばから神の御声を聴き、それを分かち合い、また他の人の分かち合いを聴くことで、それが深められ祈りが導かれていきます。焦りは消え平安が来ます。

さて、創世記11章は「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。」と始まります。そして、バベルの塔を築く者たちは東のほうから「移動して来て、」と続きます。それは地理的な移動だけでなくて、「一つのことば」からの移動でもあったのでしょう。主なる神の一つのことば、そしてそこから導かれる私たちの一つの話しことば。私は、引っ越しただけでなく、そこに戻されたのです。

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No.89 6月25日

面白いなと思ったのですが、息子が通う保育園では「変装しての保護者参観」なる催しがあるのです。それは、文字通り親が変装して、子どもに気付かれないように園での様子を観察するのが目的です。さて、いよいよ我が家にも順番が回ってきました。初めてなので今回は妻が変装して行くことになりました。妻は数日前から何に変装しようかと考えているようでしたが、「子泣き爺」(ゲゲゲの鬼太郎に登場する妖怪)との提案は保育士から却下され、逆に割烹着と三角巾、マスクとサングラス、そして雑巾も渡され、朝、園児の前で「今日は、掃除のお姉さんが来てくれました」と紹介され、拭き掃除の真似をしながら息子を観察し、外の散歩にもその格好で行ったとのことです。もちろん息子には声をかけず目も合わしません。しかし、そんな程度でよくばれないものです。これまでにばれたことは一度もないとのこと。妻は保育士になぜばれないのか聞きました。すると先生はこう言いました。「ママだったら僕を見つけたら真っ先に僕のところに来てくれると信じてるからですよ。」なるほど、深いです。信仰もそうなのでしょう。「子どもたちのようにならない限り・・・」との主イエスのおことばが響いてきます。さて、わが息子、予想どおり、相変わらずやんちゃ坊主だったようです。その日の夜、息子は言いました。「今日来た掃除のお姉さん、ママにからだが似てたよ」

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No.88 6月18日

私は今、『船の右側』という月刊誌で連載している大阪ハリスト正教会(ロシア正教)の司祭、松島雄一師のコラム、『東風(こち)吹かば』にはまっています。で、6月号、私は深く教えられまして、皆さんにも分かち合いたく、ここで要約を紹介させてください。

主イエスが地上のご生涯の最後に弟子たちに告げられた命令は「待ちなさい」でした。弟子たちは待った末についに聖霊を受け、弟子たちの群れが使徒たちに率いられた共同体、教会へと変えられました。主イエスは「行動し、つかみ取れ」とはおっしゃらなかった。「行動し、つかみ取る」これは楽園に置かれたアダムとエバが蛇にそそのかされて、神に禁じられた木の実に手を差し出し、もぎ取って食べた時から始まったライフスタイルです。多くのクリスチャンは、二人のしくじりから始まったのが「行動し、つかみ取る」というライフスタイルだったことに気づきません。反対にそれを生きるのが人のあるべき姿と信じて疑いません。そしてただ「待つ」ことは消極的な生き方、神からいただいた「タラント」の無駄遣いとしか見ません。「待ちなさい」、これは「行動」することではなく「待つ」ことを私たちの「いのち」の基本的なトーン、基調として取り戻しなさいということではないでしょうか。「待つ」ことは言い換えれば「祈る」ことです。祈りを生活のリズムとして生きること、毎主日
の礼拝を、毎日の朝晩の祈りを、何をしていても心にたえまなく祈りを保ち続けることを生活のリズムにすること、「どうすればいいか」と考え込む前に、先ずは祈ることを心のクセにしてしまえば、その「待つ」に必ず聖霊は恵みの風を吹き入れてくださいます。「行動し、つかみ取る」のではなく、「祈りつつ待って、受け取る」のです。

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No.87 6月11日

私たちは皆、人生の歩みの中で、幾度か大切なことを学びます。そして、その学びの点と点を繋げてみると一本の線となり、その線は今の私に繋がり、その線をたどっていくと、今後の私も見えてきます。

『夜と霧』という名著があります。著者のフランクルは、ナチスの強制収容所の地獄を生き抜いた心理学者ですが、彼は、強制収容所でこんな体験をしました。一緒に監禁されている一人の男が、ある時夢を見て、夢の中でお告げを聞きました「今年の3月10日には戦争が終わって釈放される」。男はそのお告げを信じ希望に胸がはずみました。しかし、無情にもその日は過ぎ去り、さらにその男は、3月が終わろうとする29日に高熱を出して発病し、とうとう31日に死んでしまいました。男は、生きる拠り所を喪失してしまったからです。フランクルは幾度かそのような過酷な出来事をみ聞きし、そして著書の中で述べています。「精神的な拠り所として『希望』が必要。
しかしながら、それが外的条件に左右される場合、しばしば深刻な結果をもたらすこともある」。そしてこう告げます。「人生に何かを期待するのは間違っている。人生が、あなたに期待しているのだ」。フランクルはこれを「人生のコペルニクス的転換」と呼んでいます。天が自分のために回ることを期待するのではなく、天のために、自分自身が回るのだと。

あなたはこれまでの人生で大切なことを学んできました。そして、その学びは、これからのだれかにとって、とても必要なことなのです。つまり、人生が、あなたに期待しているのです。あなたのこれまでの人生で無駄なことは一つもありません。未来には、あなたによって生み出される何かが待っています。あなたは今朝目覚めました。主のご計画と期待があなたに置かれているからです。

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No.86 6月4日

私たちは時に、将来を考えて不安になり、人と比較して動揺し、過去を振り返って悔んだりします。私も、時たま、そのどつぼにはまります。その時というのは、蛇に睨まれたカエルのような、漬物石が心の上に置かれたような、「世界で一番辛いのは自分だ」というような思いに陥ってしまいます。しかし、そのような暗たんたる思いの中に、聖書のみことばは光を投じます。

「けれどもあなたがたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。」(Ⅱテモテ3:10-17)

今は、暗たんたる中かもしれない、しかし、これまでの人生を振り返ると、幾度か、あなたは大切なことを学んで確信を得たことがあったはず、あなたの人生に神が臨み、あなたは神と出会い、あなたを救いに導く大切なことを学んで確信を得たことがあったはず、なので、あなたは、前向き、横向き、後ろ向きになるのではなく、「学んで確信したところにとどまっていなさい」と聖書は教えるのです。

 「足跡」という詩があります。ある晩、男がこれまでの人生を振り返る夢を見ました。人生を振り返ると、そこには二つの足跡がありました。ひとつは自分の、もうひとつは神さまのものでした。しかしよく見ると、彼の人生の道程には、一人の足跡しか残っていない場面がいくつもありました。しかもそれは、彼の人生の中で、特に辛く悲しい時なのです。彼はすっかり悩んでしまいました。そんな彼に、神さまは答えます。「わが子よ。私の大切な子どもよ。私はあなたを愛している。私はあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみの時に、一人の足跡しか残されていないのは、その時は私があなたを背負って歩いていたのだよ。」。今日(6/4)はペンテコステです。あなたの助け主、あなたを背負われる聖霊が与えられた記念日です。ハレルヤ。

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